時には 母 の ない この よう に。 時には母のない子のように 歌詞の意味 黒人霊歌

カルメン・マキの「時には母のない子のように」: エムズの片割れ

時には 母 の ない この よう に

ウィキペディア より カルメン・マキ(旧本名:Maki Annette Lovelace、1951年5月18日 - )は、神奈川県鎌倉市出身の歌手、ロックミュージシャンである。 日本国籍を取得するまでの本名はMAKI ANNETTE LOVELACEであったが、現在の本名は非公表。 来歴 誕生〜歌謡曲時代[編集] アイルランド人とユダヤ人の血を引くアメリカ人の父と日本人の母との間に生まれる。 1968年、私立香蘭女学校高等学校を2年次で中退。 イラストレーターか役者になろうかと考えていた時期に、詩人の寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』にたまたま友人に連れられていった。 その舞台に感銘を受けた彼女は即入団を決意。 同じ年の8月に新宿厚生年金会館での「書を捨てよ町へ出よう」が初舞台(まだこの時は通称名の「伊藤牧」名義)。 この時、CBSソニーの関係者の目に止まり、歌手として契約。 芸名の「カルメン・マキ」はこの時期に舞台の練習中にたまたま思いついたものだという。 翌1969年に「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)でデビュー。 17歳とは思えないその妖艶な雰囲気と歌唱力、そして哀愁のある歌いっぷりが話題を呼んだ。 「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があったものの、累計でミリオンセラー[1] の大ヒット。 この曲で第20回NHK紅白歌合戦への出場も果たす。 ステージにはジーンズ姿で登場し、司会者に「ジーパンもステージ衣装になる時代が来ました」と紹介された。 ちなみに、当時の彼女の曲の作曲は武満徹やクニ河内が、作詞は前述の寺山修司や谷川俊太郎が、それぞれ手がけている。 これ以降も個性派歌手として活動し、6枚のシングルと3枚のアルバムをリリースする。 前述の「時には母のない子のように」の他にも「山羊にひかれて」や「私が死んでも」「戦争は知らない」と言ったヒット曲が出た。 1970年、写真集『篠山紀信集 NUDE』(篠山紀信)でヌードを披露。 ロックへの転向 彼女のキャリアを語る上で欠かせないのはロックへの転向である。 そもそものきっかけは、「時には母のない子のように」のレコード大賞受賞でCBSソニー社長から「ご褒美」としてレコードプレイヤーとLP盤数枚をプレゼントされた時の事である。 そのLP盤の中にジャニス・ジョプリンがあった。 それを聴いたマキは衝撃を受け、1970年に突然のロック転向を表明する。 このアルバムはニューロック期の名盤として評価が高い。 また、それまで黒人霊歌をもとにしたフォークなどを歌うシンガーから、女性ロッカーへとイメージ・チェンジをした。 メンバーは、春日博文(ギター)、鳴瀬喜博(ベース、後にカシオペア加入)、樋口晶之(ドラムス、元竜童組)。 後に絶対的な評価を受けるグループに成長していくのだが、結成当初は順風満帆とは言えず、所属事務所からはキャバレー回りを強要され、時には客から「こんな曲では踊れない」とビンを投げつけられることもあったと言う。 しかし、こうした地道な活動が実を結び、1974年にポリドールからシングル「午前一時のスケッチ」でデビュー。 高い音楽性と完成度、そしてマキの歌唱力は高い評価を得、10万枚以上を売る当時のロックアルバムとしては大ヒットとなった。 これは、当時のロックが日本の音楽業界ではほとんど相手にされていなかったことを鑑みれば、快挙とも言える。 また、同年リリースされたサディスティック・ミカ・バンドの『黒船』とともに、当時の日本のロックの到達点とする評価もある。 特にこのアルバムに収録されている約12分にも及ぶ大作「私は風」は、のちにさまざまな歌手、ミュージシャンにカバーされ、その中でも特に中森明菜のものが有名である。 なお、この録音前後にマキと春日以外のメンバーが総入れ替えとなっている。 ドラムは西哲也、古田宣司の1stアルバム参加を経て、内藤正美が1975年末まで在籍。 ベースは千代谷晃を経て、1stアルバム録音の後から、後期OZの音に決定的影響を与えた川上茂幸に替わった。 1975年5月、グランド・ファンク・レイルロードの来日公演で競演。 人気・地位を確実なものとしたOZは、1976年にアメリカ合衆国のロサンゼルスでセカンド『閉ざされた町』を4か月かけて制作。 ファーストに引き続き「閉ざされた町」や「火の鳥」といった大作路線を継承しながらも風格を漂わせたものに仕上がっている。 「閉ざされた町」でドラムを担当したのは久藤賀一。 翌1977年の10月18日新宿厚生年金会館でのステージを最後に解散。 前2作とは打って変わってポップな楽曲が並んだために現在まで評価が分かれたものとなっているが、むしろ切々と歌い上げるマキの持ち味が発揮された好盤と言える。 また解散の翌年8月にはシングル盤として「私は風」、そして10月の解散ステージと同年5月の日比谷野外音楽堂のライブ音源を収録した『ライヴ』がリリースされている。 「60s:時には・・・、70s:OZ、そして時代は今・・・LAFF」とレコードの帯にあるようにレコード会社からも期待がかかっていたが結局思うようなヒットが出ず、1981年にヘヴィメタルバンド『カルメン・マキ&5X』へと発展解消。 1982年にファースト『HUMAN TARGET』、ライブ盤『LIVE X』、1983年にはセカンド『CARMEN MAKI'S 5X』をリリースし、解散。 また、この期間には村上龍原作の映画『限りなく透明に近いブルー』の音楽に参加。 「青白い夕焼け("リュウ"のテーマ)」を歌っている。 1980年9月と11月に2度の薬物禍があった。 1983年には、週刊プレイボーイ誌上でヌードを披露した。 その後1986年にはOZの初代ベーシストであった鳴瀬喜博や松本孝弘(のちにB'zを結成)などがいたセッションバンド、「うるさくてゴメンねBAND」に参加。 ライブ活動を中心とする。 1987年にはライブ盤『うるさくてゴメンねLIVE』を発表。 その後出産、育児に専念するために一時的に音楽活動の休止を宣言した。 復帰〜現在 1993年に日本国籍を取得し、音楽活動を再開。 同年、寺山修司歿後十年の企画として『時には母のない子のように』(新録音)を発表し、久保田麻琴プロデュースによる子守唄のアルバム『MOON SONGS』を発表。 そして翌1994年には「MOSES」を結成。 1995年に『VOICES OF MOSES』を発表。 1996年にはOZ時代の盟友、春日博文のプロデュースによる「UNISON」を発表。 また、この時のセッションメンバーをもとに「UNISON UNIT」を結成し、ライブを中心として活動。 この頃に現在もライブ、アルバム制作で組んでいるギタリスト、鬼怒無月と出会っている。 1998年には後藤次利、笹路正徳、春日博文、辻仁成などをプロデューサーに迎えて『SPLIT』を発表。 2000年にはライブツアー「CALMEN MAKI 世紀末を歌う」を行い、翌年にはライブ盤『CALMEN MAKI LIVE 世紀末を歌う』をリリース。 また同年に同名のアルバムをリリースし、ライブ活動も活発化させていく。 2004年には全曲アコースティックのアルバム『ANOTHER WAY』を発表。 2008年には、初の朗読(ポエトリー・リーディング)CD『白い月』をリリース。 中原中也、萩原朔太郎らの詩を水城雄(ピアノ)の即興演奏にのせて読み、歌に留まらない表現に新境地を開いた。 現在も全国各地をライブハウスを中心に精力的に回っている。 エピソード 過去のマスコミにおいての言動から、自由奔放なイメージが付きまとうが、侠気(おとこぎ)のある人柄でもある。 1978年、ギタリストCharが、芸能界から追放処分を受け、四面楚歌状態にあったとき、救いの手を差し伸べたのが彼女である。 当時、精神的な沈鬱状態で、ギターを弾く状態になかった彼を、自身のツアーにサイドマンとして誘って、ギターを弾く機会と場を与えた。 「救われた。 マキちゃんのおかげで再スタートさせてもらった」と後年Charは、デビュー20周年記念のリットーミュージックのインタビューで語っている。 この再スタートを足掛かりに、Charは、ジョニー,ルイス&チャー(後のピンククラウド)を立上げ、日本のロックの概念を変えたと言われる(商業主義からの脱却など、その意義は大きい)1979,7,14 FREE SPIRIT コンサートを成功させ、後の日本のロックを牽引して行くことになる。

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カルメン・マキの「時には母のない子のように」: エムズの片割れ

時には 母 の ない この よう に

母のガンが再発して、生活保護を受けるため、私は一人暮らし母は弟と二人暮らしで、別々に住むことになりました。 当時私は、生活保護を受けることで毎月安定的にお金を受け取れるということが母にとっては一番だと思っていました。 確かにお金は大事です。 お金がないと生きていけないのも事実。 だけど、 私はこの時、母がどんな思いで生活をしていたのかまで気を回すことができませんでした。 母はとても気が強いタイプで、弱音や泣き言は一切言わない人でした。 今がその時どんな気持ちだったのかなとか、私が考えれるようになったのはそれからずっと後のこと、30歳ぐらいの時でした。 もう母はいないので、本当はどう思っていたのか、今となっては知るすべがないのですが、 「きっとこんな気持ちだったんじゃないかな」「こんなことを考えてたんじゃないかな」ていうことを、想像してあげれるのは私しかいないし、それを母に代わって代弁できるのも私だけです。 これを書くのは正直とても辛いです。 今のこれを泣きながら書いています。 でも、これを読むことで一人の人にでも 想いが届き、役に立てばいいなと思っています。 仕事も辞めてしまったので、 ほとんどの時間を家で一人で過ごしています。 私は会社員の仕事を続けていました。 毎日母からメールが来ます。 「今日、豆ご飯炊いたから取りにおいで」といった内容です。 私は、日々の生活でいっぱいで、「忙しいからまた今度行くね」と言って、いかない時もありました。 今思うと、 母はとても寂しかったんだと思います。 私に会いたくてそういったメールを毎日送ってきていたんだと思います。 「行ってあげればよかった」なんてそんな単純なことではありません。 母がどういう思いでメールを送ってきていたのか、なんで私は考える余裕もなかったのかな。 そう思うととても申し訳ない気持ちでいっぱいです。 目の前のことで精一杯になってしまうと、 大切な人の心の機微や、言葉の裏にある気持ちまで考えてあげられる余裕がなくなる、ということをあなたにお伝えしたいです。 そして 安心して暮らせる、 いつでも帰れる場所があるということ。 その大切さにすごく気づかされました。 母が家を買ったのは弟が生まれた翌年です。 母は45歳、私は高校1年生の時でした。 「なんで母が家を買ったのかな」ということを考えられるようになったのも、同じく三十歳ぐらいの時です。 その母の想いに気付いた時に、涙が溢れて止まりませんでした。 「家賃がかからない家を残してあげれる」 おそらく母はそのことを知っていたのでしょう。 45歳で35年ローンを組むと80歳で完済という計算になります。 もしかしたら母は、65歳までの20年間で、ローンを何とか完済しようと必死だったのかもしれません。 自己破産をして、生活保護を受けるとなった時に、母はどんな思いでその家を手放したのでしょうか。 それを思うと、とても胸が痛いです。 母は本当はとても寂しい思いをしていたんだと思います。 そしてそれを一人で抱えていたんでしょう。 家を買うということは 「あなたの家族とあなたがそこで過ごす空間、時間、居場所」という、 目に見えない大切なものを守る手段です。 どうかそのことを、忘れないでください。 亡き母を偲んで。 1年以内にやりたいことはやっておきなさい」#11.

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「二度と私ちゃんの前に現れないようにする。幸せな家庭を築くんだよ」と言った元養父 : おうち速報

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ウィキペディア より カルメン・マキ(旧本名:Maki Annette Lovelace、1951年5月18日 - )は、神奈川県鎌倉市出身の歌手、ロックミュージシャンである。 日本国籍を取得するまでの本名はMAKI ANNETTE LOVELACEであったが、現在の本名は非公表。 来歴 誕生〜歌謡曲時代[編集] アイルランド人とユダヤ人の血を引くアメリカ人の父と日本人の母との間に生まれる。 1968年、私立香蘭女学校高等学校を2年次で中退。 イラストレーターか役者になろうかと考えていた時期に、詩人の寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』にたまたま友人に連れられていった。 その舞台に感銘を受けた彼女は即入団を決意。 同じ年の8月に新宿厚生年金会館での「書を捨てよ町へ出よう」が初舞台(まだこの時は通称名の「伊藤牧」名義)。 この時、CBSソニーの関係者の目に止まり、歌手として契約。 芸名の「カルメン・マキ」はこの時期に舞台の練習中にたまたま思いついたものだという。 翌1969年に「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)でデビュー。 17歳とは思えないその妖艶な雰囲気と歌唱力、そして哀愁のある歌いっぷりが話題を呼んだ。 「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があったものの、累計でミリオンセラー[1] の大ヒット。 この曲で第20回NHK紅白歌合戦への出場も果たす。 ステージにはジーンズ姿で登場し、司会者に「ジーパンもステージ衣装になる時代が来ました」と紹介された。 ちなみに、当時の彼女の曲の作曲は武満徹やクニ河内が、作詞は前述の寺山修司や谷川俊太郎が、それぞれ手がけている。 これ以降も個性派歌手として活動し、6枚のシングルと3枚のアルバムをリリースする。 前述の「時には母のない子のように」の他にも「山羊にひかれて」や「私が死んでも」「戦争は知らない」と言ったヒット曲が出た。 1970年、写真集『篠山紀信集 NUDE』(篠山紀信)でヌードを披露。 ロックへの転向 彼女のキャリアを語る上で欠かせないのはロックへの転向である。 そもそものきっかけは、「時には母のない子のように」のレコード大賞受賞でCBSソニー社長から「ご褒美」としてレコードプレイヤーとLP盤数枚をプレゼントされた時の事である。 そのLP盤の中にジャニス・ジョプリンがあった。 それを聴いたマキは衝撃を受け、1970年に突然のロック転向を表明する。 このアルバムはニューロック期の名盤として評価が高い。 また、それまで黒人霊歌をもとにしたフォークなどを歌うシンガーから、女性ロッカーへとイメージ・チェンジをした。 メンバーは、春日博文(ギター)、鳴瀬喜博(ベース、後にカシオペア加入)、樋口晶之(ドラムス、元竜童組)。 後に絶対的な評価を受けるグループに成長していくのだが、結成当初は順風満帆とは言えず、所属事務所からはキャバレー回りを強要され、時には客から「こんな曲では踊れない」とビンを投げつけられることもあったと言う。 しかし、こうした地道な活動が実を結び、1974年にポリドールからシングル「午前一時のスケッチ」でデビュー。 高い音楽性と完成度、そしてマキの歌唱力は高い評価を得、10万枚以上を売る当時のロックアルバムとしては大ヒットとなった。 これは、当時のロックが日本の音楽業界ではほとんど相手にされていなかったことを鑑みれば、快挙とも言える。 また、同年リリースされたサディスティック・ミカ・バンドの『黒船』とともに、当時の日本のロックの到達点とする評価もある。 特にこのアルバムに収録されている約12分にも及ぶ大作「私は風」は、のちにさまざまな歌手、ミュージシャンにカバーされ、その中でも特に中森明菜のものが有名である。 なお、この録音前後にマキと春日以外のメンバーが総入れ替えとなっている。 ドラムは西哲也、古田宣司の1stアルバム参加を経て、内藤正美が1975年末まで在籍。 ベースは千代谷晃を経て、1stアルバム録音の後から、後期OZの音に決定的影響を与えた川上茂幸に替わった。 1975年5月、グランド・ファンク・レイルロードの来日公演で競演。 人気・地位を確実なものとしたOZは、1976年にアメリカ合衆国のロサンゼルスでセカンド『閉ざされた町』を4か月かけて制作。 ファーストに引き続き「閉ざされた町」や「火の鳥」といった大作路線を継承しながらも風格を漂わせたものに仕上がっている。 「閉ざされた町」でドラムを担当したのは久藤賀一。 翌1977年の10月18日新宿厚生年金会館でのステージを最後に解散。 前2作とは打って変わってポップな楽曲が並んだために現在まで評価が分かれたものとなっているが、むしろ切々と歌い上げるマキの持ち味が発揮された好盤と言える。 また解散の翌年8月にはシングル盤として「私は風」、そして10月の解散ステージと同年5月の日比谷野外音楽堂のライブ音源を収録した『ライヴ』がリリースされている。 「60s:時には・・・、70s:OZ、そして時代は今・・・LAFF」とレコードの帯にあるようにレコード会社からも期待がかかっていたが結局思うようなヒットが出ず、1981年にヘヴィメタルバンド『カルメン・マキ&5X』へと発展解消。 1982年にファースト『HUMAN TARGET』、ライブ盤『LIVE X』、1983年にはセカンド『CARMEN MAKI'S 5X』をリリースし、解散。 また、この期間には村上龍原作の映画『限りなく透明に近いブルー』の音楽に参加。 「青白い夕焼け("リュウ"のテーマ)」を歌っている。 1980年9月と11月に2度の薬物禍があった。 1983年には、週刊プレイボーイ誌上でヌードを披露した。 その後1986年にはOZの初代ベーシストであった鳴瀬喜博や松本孝弘(のちにB'zを結成)などがいたセッションバンド、「うるさくてゴメンねBAND」に参加。 ライブ活動を中心とする。 1987年にはライブ盤『うるさくてゴメンねLIVE』を発表。 その後出産、育児に専念するために一時的に音楽活動の休止を宣言した。 復帰〜現在 1993年に日本国籍を取得し、音楽活動を再開。 同年、寺山修司歿後十年の企画として『時には母のない子のように』(新録音)を発表し、久保田麻琴プロデュースによる子守唄のアルバム『MOON SONGS』を発表。 そして翌1994年には「MOSES」を結成。 1995年に『VOICES OF MOSES』を発表。 1996年にはOZ時代の盟友、春日博文のプロデュースによる「UNISON」を発表。 また、この時のセッションメンバーをもとに「UNISON UNIT」を結成し、ライブを中心として活動。 この頃に現在もライブ、アルバム制作で組んでいるギタリスト、鬼怒無月と出会っている。 1998年には後藤次利、笹路正徳、春日博文、辻仁成などをプロデューサーに迎えて『SPLIT』を発表。 2000年にはライブツアー「CALMEN MAKI 世紀末を歌う」を行い、翌年にはライブ盤『CALMEN MAKI LIVE 世紀末を歌う』をリリース。 また同年に同名のアルバムをリリースし、ライブ活動も活発化させていく。 2004年には全曲アコースティックのアルバム『ANOTHER WAY』を発表。 2008年には、初の朗読(ポエトリー・リーディング)CD『白い月』をリリース。 中原中也、萩原朔太郎らの詩を水城雄(ピアノ)の即興演奏にのせて読み、歌に留まらない表現に新境地を開いた。 現在も全国各地をライブハウスを中心に精力的に回っている。 エピソード 過去のマスコミにおいての言動から、自由奔放なイメージが付きまとうが、侠気(おとこぎ)のある人柄でもある。 1978年、ギタリストCharが、芸能界から追放処分を受け、四面楚歌状態にあったとき、救いの手を差し伸べたのが彼女である。 当時、精神的な沈鬱状態で、ギターを弾く状態になかった彼を、自身のツアーにサイドマンとして誘って、ギターを弾く機会と場を与えた。 「救われた。 マキちゃんのおかげで再スタートさせてもらった」と後年Charは、デビュー20周年記念のリットーミュージックのインタビューで語っている。 この再スタートを足掛かりに、Charは、ジョニー,ルイス&チャー(後のピンククラウド)を立上げ、日本のロックの概念を変えたと言われる(商業主義からの脱却など、その意義は大きい)1979,7,14 FREE SPIRIT コンサートを成功させ、後の日本のロックを牽引して行くことになる。

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