こう きん の らん。 【三国志用語事典】こ

黄巾の乱(こうきんのらん)とは

こう きん の らん

中国,末の。 をとしたためこの名がある。 後朝も2世紀末には外戚,,官僚が権力争いを繰返して政治が乱れた。 地方ではが続発し,のが絶えなくなった。 の人が,みずから大賢良師と号し,罪過の反省とによる病気の治癒を説いたは,たちまち生活苦に迫られた農民のなかに広まり,地方の小役人も包み込んでわずか 10年余のうちに数十万に達し,その範囲は華北はもちろん遠くにも及んだ。 張角はそれらの信徒約1万を方というに編成し,その数 36方を数えたが,政府がをもってこれにのぞむと,中平1 184 年2月,を全教団に飛ばして 36方一斉に。 みずから天公将軍と号し,黄巾を標識とした。 張角の病後,黄巾軍は衰えたが,残党や呼応して蜂起した農民の反乱が相次ぎ,北方民族の侵入もあって,漢朝の権威はまったく衰えた。 以後宮廷では宦官が権力を,黄巾討伐に功のあったなどの武将や,などの有力が互いに勢力を競うことになった。 後漢中期になると豪族が大土地所有を基盤に村落社会を支配,伝統的な村落秩序は崩壊する。 天災と飢饉も頻発し,窮迫した農民は豪族に隷属し,あるいは流亡化して華北には膨大な没落農民・が発生した。 時の政権はを極めて事態は悪化,これに抵抗した儒家・士大夫の運動もで挫折する。 そのころ鉅鹿 のが〈〉を,罪のざんげによると倫理的な生き方を説き,疫病の(まんえん)に苦しみ,村落社会から疎外された没落農民・流民を救済して,十数年間に数十万の信徒を得て各地に教団を組織した。 出典 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について の解説 中国、後漢 ごかん 末の農民反乱。 後漢代後半、豪族の大土地所有の進展につれて、多数の農民が土地を失って没落した。 また外戚 がいせき 、宦官 かんがん 、党人官僚三つどもえの政争によって中央政府の機能は低下し、洪水や干魃 かんばつ や流行病がしきりに発生した。 鉅鹿 きょろく (河北省南部)の人張角 ちょうかく は、黄帝 こうてい 信仰や道家 どうか 学説を含む初期道教の一派である太平道 たいへいどう を創始して、大賢良師 たいけんりょうし と自称した。 教義による呪術 じゅじゅつ と信徒本人の懺悔 ざんげ 、反省によって病気が治るという太平道の教えは、黄河下流域の多数の貧困と病気に苦しむ農民たちをその教団に組織することに成功した。 たまたま後漢霊帝 れいてい 代の184年は、60年を1周期とする干支 かんし の最初の年、すなわち甲子の年にあたっていた。 「蒼天 そうてん すでに死せり。 黄天まさに立つべし。 歳は甲子に在 あ り。 天下大吉」というスローガンを掲げた張角は、この年2月、目印として互いに黄色い頭巾を着用した30余万の信徒を率いて反乱を起こした。 後漢政府が党人官僚への弾圧を中止して黄巾討伐に全力をあげたこと、張角が陣中において病死したことなどにより、反乱の主流は年内に平定されたが、その余党は10年以上にわたって各地に蜂起 ほうき しては離合集散した。 武力を伴った中央における政治抗争と、行政官や将軍たちの地方割拠と絡み合いながら、黄巾の余党の活動は後漢帝国の統一政府としての実質に重大な打撃を与えた。 五行思想では後漢は火の徳をもつが,これに代わるものとして,土の徳を示す黄色の頭巾 ずきん を着けたのでこの名がおこった。 豪族のに鎮圧され,反徒10万人あまりが殺され,張角も病死して乱は鎮圧された。 しかし,この乱をに各地に豪族が自立して,後漢の滅亡は決定的となった。 また184年という年は,「甲子」の年とされ,古代中国のによれば「ものごとの始まり」の年とされているので,反乱軍はこれを利用し,挙兵した。 出典 旺文社世界史事典 三訂版 旺文社世界史事典 三訂版について 世界大百科事典 内の黄巾の乱 の言及.

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元末の混乱 [ ] 元末にかけて華北の中心に白蓮教が勢力を拡大していた [ ]。 本来は仏教の一派だが世の混乱と共に次第に過激化し「元王朝の打倒とユートピアの実現」を唱える反体制的な教団となり、・には反乱をおこすまでになったが、これらの反乱は小規模にとどまり官軍により鎮圧された。 末期の元は権臣がを擁立し、その権臣と皇帝を別の権臣が殺し、新しい皇帝を擁立するという事を繰り返したため、政治は混乱し、統治能力を失っていった。 この時期にはが頻発していたが、天災というよりは政府が適切な処置を行わなかったことによる人災と言える。 、が・でを行い、元の輸送船を襲い始めた。 ・時代からこの地域は中国全土の経済を支える重要な地域であったため、ここからの輸送が途絶えることは致命傷になり得た。 政府は討伐軍を送ったが、元々草原出身の民族であるは海戦には弱く、討伐軍の司令官が捕虜になるという惨敗となった。 これにより元朝の衰退ぶりが明らかとなり、反乱への気運が高まることになる。 白蓮教徒の蜂起 [ ] 1351年、白蓮教の教祖はのの末裔を名乗り、での土木工事に従事していた人夫達を扇動して反乱を企てたが、挙兵直前に発覚し韓山童は処刑された。 らは韓山童の子のを擁立して蜂起し、には 小明王とし、国号を 宋、年号をとした。 さらにを、劉福通は平章となった。 のなどが呼応したが、紅巾軍の本体である宋とは行動を別にしそれぞれが自らの勢力拡大を狙って割拠して、首領たちが白蓮教を信仰していたかも怪しまれる。 またこれとは別に、で僧侶に祭り上げられたがいち早く1351年には皇帝を名乗っており、国号を 天完、年号をとした。 両者を区別するために前者を 東系紅巾、後者を 西系紅巾と呼ぶことがある。 一般に東系紅巾は騎兵、もしくは歩兵による戦いを得意とし、西系紅巾は水軍を中心とした戦いを得意とする傾向があった。 紅巾軍の解体 [ ] 1362年から1366年の紅巾軍進路 、宋は全軍を三路に分け、北伐を開始した。 毛貴率いる東路軍は一時、にせまり、関鐸ら率いる中路軍はの首都を一時占領したがらの反撃をうけたため、開城を捨て転進してを占領した [ ]。 この北伐は元朝側に軍の弱体化と激しい内部抗争があったため大した抵抗も受けず、一時は大いに成功を収めたかに見えたが、やがて態勢を立て直した軍の本格的な反撃が始まり、(察罕帖木児)・(孛羅帖木児)らによって北伐軍は大破され、さらに首都を失い急速に弱体化が進み、安徽省のでのみ権威を保つようになった。 いっぽう西系紅巾は南下、西進して江南を押さえ、のを宣撫してその勢力を広げ、東系紅巾をしのぐほどになったが、次第に内部抗争が激化、に徐寿輝は部下のに殺害され、明玉珍が独立したため事実上、西系紅巾は解体された。 郭子興の配下から朱元璋が勃興し、のに攻められた韓林児を保護した。 しかしその後の韓林児には実権は無くに暗殺され、それと同時に朱元璋による白蓮教の禁教令が出された。 ここで実質的に紅巾の乱は終結し、以後は朱元璋による覇権確立の戦争となる。 紅巾軍は白蓮教団を母体としていたが、実態は盗賊や流民の寄せ集めであり、統率・規律も不十分で暴徒と化して都市や村を荒らしまわる部隊も多かった。 また「漢民族の復興とユートピアの実現」を説いてはいたが、具体的な政策があったわけでもなく、漢人知識人層を失望させ彼らの協力を得られなかったことが、紅巾軍の衰退につながったと思われる。 紅巾軍の高麗侵入 [ ] 、紅巾軍は元の上都開平に進撃したが 、反撃を受けへ向かい 、に4万、に10万の大軍で高麗に侵入した。 一回目の侵入では西京()をあくる年の1359年まで占領した が、・・らを中心とした高麗軍 は反撃を行い、紅巾軍をほぼ全滅させた。 二回目の侵入では首都を翌年の初めまで占領し、江原道まで侵入したため、が福州(現在の)に避難したが 、崔瑩を総指揮官とする高麗軍は開京を奪還し、紅巾軍を北方に退けた。 脚注 [ ] [].

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こう きん の らん

蜂起 [ ] の張角は『太平清領書』に基づく的な悔過による治病を行った。 具体的には山中で薬草を採ってきたときに、南華老仙に出会い、『済民要術』という天書を授かり、妖術を覚え治病を行い太平道を広めた。 それをもって大衆の信心を掌握し、政治色を濃くしていった太平道は、数十万の信徒を36個に分け、一単位を「方」とし軍事組織化していった。 そして武装蜂起を計画した張角は、漢王朝の転覆を暗示した「 蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉」(『』71巻 皇甫嵩列傳 第61 伝 、蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。 歳はに在りて、天下大吉) というスローガンを流布し、役所の門などに「甲子」の二文字を書いて呼びかけた。 (7年、年は甲子)、先に荊州・揚州で兵を集めさせていたを洛陽に送り込み、の・等を内応させに内と外から蜂起するよう約束したが、張角の弟子のが達に密告したことで蜂起計画が発覚し、馬元義は車裂きにされた。 事を重く見たはやに命じ、宮中の衛兵や民衆を調べさせ千人余りを誅殺し、張角捕縛の命を下した。 2月、事がもれた張角は予定より早く諸方に命じ一斉に蜂起し、自らを天公将軍と称し、弟の・をそれぞれ地公、人公将軍とした。 安平と甘陵で、張角に呼応した住民が王(安平王・甘陵王)を捕らえた。 3月、霊帝はをとし将兵を都亭に駐屯させ、八つの関にを置き洛陽を守護させた。 や等の進言によってを解き、官界から追放されていた清流知識人が黄巾賊に合流するのを防ぎ、且つこれを利用した。 また宮中の倉の銭と西園の馬を出し人材を募り、を張角がいる冀州方面へ、皇甫嵩とに豫州潁川方面へと、それぞれ黄巾の勢力が強い所へ派遣した。 経過 [ ] 豫州・潁川黄巾軍 [ ] 184年4月、朱儁は潁川にて黄巾軍のと激突し敗走する。 汝南太守のは邵陵で黄巾軍に敗北。 5月、皇甫嵩・朱儁は長社に籠城し、それを波才は大軍を持って包囲した。 劣勢のなか、皇甫嵩は軍を鼓舞し火計を用いて波才軍を混乱させ長社を討ってでて波才軍を敗走させた。 そこにちょうど援軍に来た軍と合流しさらに戦い大いに打ち破り、追撃し陽翟において波才軍を、6月に西華にて軍をそれぞれ壊滅し、黄巾の別働隊を破ったと共に豫州を平定した。 荊州・南陽黄巾軍 [ ] 184年3月、荊州南陽にて率いる南陽黄巾軍が蜂起。 南陽太守のを攻め殺した上、自らを「神上使」を称し、宛に駐屯した。 6月、新しく南陽太守に任命されたは張曼成を攻めこれを斬ったが、南陽黄巾軍は新たにを指揮官に立てて盛り返し、宛城に籠った。 豫州を平定し終えた朱儁は荊州刺史の・秦頡と合流し宛城を包囲した。 8月、宛城を包囲中に何者かが朱儁更迭を進言しているという噂が流れる。 この事態を受け、朱儁は急遽攻撃を開始し趙弘を斬った。 趙弘を失った黄巾軍はを代わりに立て再び宛城に籠ったが、朱儁揮下のの活躍もあり宛城は落城した。 韓忠は脱出し降伏しようとするが朱儁が受け入れず、その後打ち破られた韓忠は秦頡に殺されてしまったため、南陽黄巾軍は新たにを立て抵抗を続けた。 10月、朱儁は激しく抵抗を続けた孫夏をついに破り南陽黄巾軍を壊滅した。 冀州・幽州・張角軍 [ ] 代の書物の黄巾の乱、の三人 184年4月、の黄巾軍は刺史のと、広陽太守のを攻め殺した。 6月、冀州にて黄巾軍に連戦連勝した盧植軍は、張角が広宗に籠城するとそれを包囲し攻め落とそうとした。 盧植軍は終始優勢だったが派遣されてきた小黄門のに賄賂を贈らなかったため、恨まれ讒言されて職を解かれてしまう。 代わりにが派遣されたが逆に黄巾軍に敗れた。 8月、霊帝は豫州を平定したあと兗州東郡において軍を打ち破った皇甫嵩を冀州に派遣するよう命じた。 10月、皇甫嵩は広宗で黄巾軍を奇襲によって破り張梁を斬った。 このときすでに張角は病死していたのでその遺体を引きずり出し晒した。 さらに鉅鹿太守のと共に、曲陽にて張宝を打ち破りこれを斬った。 これにより指導者を失った黄巾族は瓦解し、黄巾の乱は収束に向かう。 その後の影響 [ ] しかしながら、張角ら幹部が死去した後も乱の根本的原因である政治腐敗による民衆への苛政が改善されることはなく、黄巾軍の残党はこののちも広範な地域に跋扈し、反乱を繰り返したり、山賊行為や盗賊行為を行っていた。 これらの中で・に率いられ白波谷に拠った残党は「白波賊」と称されたが、の帰還の際に後漢に帰順し、皇帝奪還を目論む・らと交戦した。 後に盗賊のことを「白波」と称するのはこれによる。 また、河北ではの黒山賊が割拠し、青州でも黄巾軍が大流行しており、青州の黄巾軍100万人は中国北部を大いに荒らしに大敗する。 187年、青州刺史は討伐を命じた。 討伐軍が平原を通過した時、劉子平はが武勇に優れていると述べて従事に推薦した。 劉備は従軍し、田野で敵軍と戦い負傷し、死んだふりをして後から友人に助けられ脱出。 軍功で安熹県の尉になった(魚豢「典略」)。 、のが戦死。 黄巾軍の勢力が弱かったのような地域でも後漢政府の統制が弱まったため、らが相次いで無軌道な反乱、自立、抗争を繰り返し、異民族も辺境でしばしば略奪行為をおこなった。 このような治安の悪化に備えるため、主に豪族を中心にして村落共同体規模で自衛・自警のための武装を行うものが現れた。 治安の悪化に伴い、知識人を含む多くの民が難を避けて荊州・揚州・・などやの辺境地域に移住したことは、これらの地域の文化水準の向上と開発を促し、これらの地域が自立する素地をなしたことは三国時代やその後のの要因となった。 黄巾の乱以後、軍閥的な勢力が多数出現し、これらによる群雄割拠の様相を呈するが、これら軍閥を支えていたのは黄巾の乱により武装化した豪族たちと広汎な地域に拡散した知識人たちであった。 脚注 [ ] [].

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