東京 だ よ おっかさん 歌詞。 船村徹 東京だョおっ母さん

東京だよおっ母さん: 二木紘三のうた物語

東京 だ よ おっかさん 歌詞

概要 [ ] 通算150万枚を売り上げる大ヒットとなり 、島倉の代表曲の一つに数えられる。 同年に公開された同名の映画では島倉自身が主演を務めた。 タイトルの通りが楽曲の舞台となっており、歌詞中には、、などの東京の名所が登場している。 また、2番の歌詞で登場する「桜の下」とはのことを指している。 の東京都内定期観光バスでは、初代の「」とともに、ガイドが乗客に披露する歌にもなっている。 「東京だョおっ母さん」というタイトルは、本楽曲が発売される前年のに発売されたのシングル「」を聞いた島倉の同じような歌を歌いたいとの願望からつけられたものである。 なお、島倉はひばりをプライベートでも姉のように慕っており、本楽曲と『波止場だよ、お父つぁん』はともに、船村徹による作曲である。 同年島倉はに初出場を果たしたが、曲目は「」であった。 その後、島倉は通算35回紅白に出場したものの、過去のヒット曲を歌唱した「名曲紅白」でも歌われることはなく、代表曲のひとつである本楽曲が紅白の舞台で歌唱されたことは一度もなかった。 後に島倉が再録音し、歌唱したものにはセリフが入っているが、発売当時はセリフなしであった。 収録曲 [ ]• 東京だョおっ母さん 作詞:、作曲:• 故郷のかおり 作詞:野村俊夫、作曲:船村徹 カバー [ ]• (、アルバム「」収録)• (、シングル「」収録) 出典 [ ].

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東京 だ よ おっかさん 歌詞

作詞:野村俊夫、作曲:船村 徹、唄:島倉千代子 1 久しぶりに 手をひいて 親子で歩ける うれしさに 小さい頃が 浮かんできますよ おっ母さん ここがここが二重橋 記念の写真を とりましょうね 2 やさしかった 兄さんが 田舎の話を 聞きたいと 桜の下で さぞかし待つだろ おっ母さん あれがあれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも 3 さあさ着いた 着きました 達者で永生き するように お参りしましょよ 観音様です おっ母さん ここがここが浅草よ お祭りみたいに にぎやかね 《蛇足》 昭和32年(1957) 4月、コロムビアからレコードが発売されました。 ヒットしたので、東宝が映画化しました。 この前月、三橋美智也の歌で『東京見物』(作詞:伊吹とおる、作曲:佐伯としを) が、キングから発売されました。 こちらの歌詞も似た内容ですが、上京した老母を案内するのは息子で、案内する先は、二重橋、上野公園、靖国神社になっています。 両作品とも、兄が戦死しているという設定で、敗戦から十数年経てもなお、戦争の傷跡を色濃く残している家族が多かったことを物語っています。 ところで、何年か前、書籍や不要な資料を整理していたとき、学生時代の写真アルバムが出てきました。 懐かしくなって見ているうちに、1枚の写真に目がとまりました。 二重橋をバックにした集合写真でしたが、並んでいるのは年齢もまちまちな見覚えのない男女ばかりでした。 不審に思ってよく見てみると、そのなかに私と母が混じっていました。 それで思い出しました。 大学1年の晩秋だったと思いますが、母が上京してきた際、効率よく東京を見物したいから、はとバスに乗りたい、といいだしたのです。 いっぱし都会人になったつもりの私は、(田舎者が乗るはとバスなんかに乗りたくないな)と内心渋りましたが、前日に上等のスーツとコートを誂えてもらっていたので、逆らえません。 羽田空港、東京タワー、皇居前広場……あとは忘れましたが、見物しているうちに、けっこう楽しくなってきたのを思い出しました。 しかし、知らない人たちと二重橋をバックに写真に写るのには、抵抗がありました。 その写真を克明に見ると、ああイヤだな、と思っているのが表情に出ています。 母は満足して帰りました。 私は、ほんとうに甘ったれのバカ息子でした。 忸怩たる思いでいたたまれなくなります。 お母さん、あなたの息子は今もバカ息子のままですが、あなたの孫娘2人は、意外にもきちんとしたおとなに育ちましたよ。 上の娘は、もう何年かすると、あのときのあなたの年齢に達します。 (二木紘三) からたち日記、哀愁のからまつ林なども唄ってましたね。 島倉千代子は美しく、清純派の澄んだ声で唄う歌は 私(20才頃)も心を奪われましたね。 あの頃、東京駅など修学旅行の東京見学の中、高校生がホームにあふれていました。 皆、元気な赤い頬っぺをしてました。 男子は蛇腹と白線がついた学生帽、詰め襟には金ピカのローマ数字の学年章、靴はキャラバンシューズ、ズボンは身長の伸びが早いせいか足のくるぶしが見えてる短いズボン。 女子は、衿は大きく背中は四角になって2本位の白線で縁どりしてあるセーラー服と白いスカーフ。 白のキッチリした短いソックス。 懐かしいなあ。 あれは、どこへいったのかなー。 最近見ないような・・・。 今どきは、原宿ルックでジエット機で海外かなー。 世の移り変わりは文化の変化として納得です。 私も若い時、はとバスに乗りたいという感覚は持っていませんでした。 未だにまだ乗っていません。 この機会に今度乗って来ようと思います。 投稿: 連太郎 2009年6月11日 木 03時02分 私は、九州のとある山間部で育ち、今は神戸に住んでいます。 昨年、父が74歳で他界しました。 父が亡くなった後、母から、まだ東京に行ったことがなく、父と一緒に行く約束をしていたが、父の急病でそのままになってしまったという話を聞きました。 それで、今年の春に、九州から母を呼び、子供 孫 を連れて東京見物に行ってきました。 皇居前広場、上野公園、浅草・・・、最後の靖国神社は雨模様のため断念しましたが、一応、東京の名所と言われるところは回りました。 父が亡くなって、初めて、母から、終戦後の朝鮮からの引揚げ時や父と結婚後一緒に苦労した話等を聞きました。 父は、生前、苦労話などしたことがないので、初めて聞く内容でした。 この歌を聴くと、母とともに亡くなった父への思いが新たになります。 投稿: すずらん 2009年6月14日 日 11時33分 すずらんさんの投稿を拝見して、親の存在の大きさを改めて感じています。 昭和22年生まれの私は、父42才母40才の時に5人兄姉の末っ子として 生まれました。 これで子供は終わり(修まるように)と修と名づけられました。 同級生には、幼稚園に通った子がほとんどいないくらい皆大変な生活をしていたと記憶しています。 大学はアルバイトをしながら卒業した私は、両親の年齢を考え結婚は早くしたいと、入社後1年で家庭を持ちました。 やがて子供が生まれましたが、生活はさほど楽ではなく親をどこかの温泉でも連れていくような余裕はなく,母は68才、父は72才で他界しました。 今でもこのような曲を聴いたりすると一度でいいから親孝行の真似事をしたかったと思います。 ただ、親は私の孫の顔を見ることができるのかと思っていたそうです。 そのことだけでも実現できたことが良かったと思っています 投稿: 修さん 2009年6月14日 日 14時38分 この頃の歌謡曲には「東京だよおっかさん」をはじめ曲の間にセリフのあるものが多くありました。 そこでお願いですが「大利根無情」のようにセリフも掲載して貰えないでしょうか?また歌謡曲にセリフの入ったのはいつ頃からいつ頃迄のことなのでしょうか? このブログでは軽々しく使ってはいけないのかも知れないであろう)蛇足ですが、この曲のセリフに「・・・お兄ちゃんが登って遊んだ庭の柿の木もそのままよ・・・」とありますが、私が子供の頃は「柿の木は折れやすいから登ってはいけない」と強く言われていたものです。 大人が柿の実をとるときは、竹竿の先に切れ込みを入れた道具で取っていたものです。 投稿: なとりがおか 2009年12月27日 日 00時22分 私が初めて東京を見たのは、九州の大学3年20歳の時でした。 工業系の大学で、夏休みに長野県下水内郡栄村の水力発電所で2週間くらい実習をさせていただき、その上幾ばくかのアルバイト料までいただきました。 行くときは中央西線、篠ノ井線、飯山線経由でしたが、帰りは飯山線、上越線経由で初めて上野に来た私は、「はとバス」に乗りました。 完全なお上りさんです。 でも、排気ガスのため頭が痛くなったのを覚えています。 定年退職後、40年ぶりにその発電所を訪ねてみましたが、無人化されていました。 就職以来、茨城県に住んでいますが、母には東京見物もさせることなく、九州で死なせてしまいました。 まさにバカ息子でした。 投稿: 竹永尚義 2012年3月 8日 木 18時33分 老いた親が東京へ出てきて、ビルの大きさや人間の多さに目を丸くしたというのは、テレビが普及するまでの話でしょう。 おおよそ1959年(昭和34年)皇太子殿下御成婚以前の話ということになる。 それ以後は、テレビが普及し、映像で東京の様子は伝わり、お年寄りも東京のイメージトレーニングができるようになった。 島倉千代子のこの歌は、そういう古い時代、親子水入らずで東京見物ができたという実にうるわしい話です。 しかし、映画『東京物語』(1953年小津安二郎監督)では、上京したものの東京に住む子どもたちからたらい回しにされ、体よく追い出されて、熱海の安宿に泊まる老夫婦の話がでてきます。 子どもたちがとくに冷たいわけでもないが、子どもにはそれぞれ、家庭というか、生計というか、日々の営みの事情がある。 そんな中、戦死した次男の嫁(原節子)の献身的な心使いに、老夫婦は救いを感じ、尾道に帰って行く。 「他人の方が肉親よりもやさしい」という難解な命題を感じてしまいますが・・。 同じく小津監督の『一人息子』(1936年)では、信州から出てきた母親が、東京で出世していると思っていた自慢の息子が、大都会に埋もれて、わびしい暮らしに生きる希望も失ってしまった姿に遭遇する。 だが、困窮した隣の家を親身になって助ける息子の善人ぶりに、 母親は息子への誇りをとりもどし、息子を励まして、田舎に帰る。 「地方から上京した親」といえば、この歌とこの二つの映画を思い出します。 投稿: 越村 南 2014年9月 5日 金 15時52分 デビューする前から大ファンだったという、美空ひばりが歌った「波止場だよお父つぁん」を聴いた島倉千代子が、自分もこんな曲が歌いたいという、願望もあって作られたという「東京だヨおっ母さん」は、お千代さんの数ある歌の中でも、私が最も多く聴いてきた歌の一曲です。 そして島倉千代子が若干18才の、昭和32年に吹き込んだ「東京だヨおっ母さん」も格別で、これまで何度も聴いてきましたが、それと同時に、DVDやYouTubeなどで、この曲の動画を数多く見ながらの感動もしてきました。 私は「東京だヨおっ母さん」の数ある動画の中でも、これは凄いと思って、繰り返し何度も見て来た、特別な一本の動画があります。 NHK放送「ビックショー」という歌謡番組に、彼女は2年続けて出演していますが、昭和51年に初出演した時のフィナーレで、当時38才の島倉千代子が、感情込めて語るセリフとともに、渾身の力で歌う「東京だヨおっ母さん」は、特に圧巻で、絶品です。 その映像には、客席の感動した様子も映っており、お千代さんの神髄が感じとれる、最高の動画だと思いました。 私にとって、東京の名所と言えば、幼い頃からあこがれて来た「東京タワー」です。 いつの日か一緒に行こうという、母との約束は、残念ながら果たせませんでしたが、タワーに上り展望台から絶景を見るという、今でも変わることのない、私の永年の夢だけは、必ず実現したいと思っています。 投稿: 芳勝 2018年2月25日 日 02時45分 101歳の誕生日を過ぎたばかりの母親は去年の夏から老人施設に入っていますが、施設入所後に子どもたちで母親の写真などを整理したところ、やはりありました。 二重橋を前にした集合写真で、写っているのは見知らぬ人ばかりというものが。 こういう大判の白黒写真が家にある人はたくさんいるのでしょうね。 今はスマホで自撮りばかりの時代ですが、何かというと記念の集合写真を撮っていた頃がありました。 なかでもこの二重橋前での写真というのは、はとバスの定番コースだったため、数十万の家庭に残っていると思います。 つくづく思うのですが、デジタル化したおかげで写真のありがたみが小さくなりました。 フィルムを使うカメラのほうが一枚一枚に込めていた意味が大きかったように思います。 そうやって撮った写真を選別してアルバムに貼り、ときおり見返すということは、スマホの画面でパッパッと見ることよりも家族の歴史をたどるのに役に立ちます。 投稿: 舟人 2018年2月25日 日 07時56分.

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概要 [ ] 通算150万枚を売り上げる大ヒットとなり 、島倉の代表曲の一つに数えられる。 同年に公開された同名の映画では島倉自身が主演を務めた。 タイトルの通りが楽曲の舞台となっており、歌詞中には、、などの東京の名所が登場している。 また、2番の歌詞で登場する「桜の下」とはのことを指している。 の東京都内定期観光バスでは、初代の「」とともに、ガイドが乗客に披露する歌にもなっている。 「東京だョおっ母さん」というタイトルは、本楽曲が発売される前年のに発売されたのシングル「」を聞いた島倉の同じような歌を歌いたいとの願望からつけられたものである。 なお、島倉はひばりをプライベートでも姉のように慕っており、本楽曲と『波止場だよ、お父つぁん』はともに、船村徹による作曲である。 同年島倉はに初出場を果たしたが、曲目は「」であった。 その後、島倉は通算35回紅白に出場したものの、過去のヒット曲を歌唱した「名曲紅白」でも歌われることはなく、代表曲のひとつである本楽曲が紅白の舞台で歌唱されたことは一度もなかった。 後に島倉が再録音し、歌唱したものにはセリフが入っているが、発売当時はセリフなしであった。 収録曲 [ ]• 東京だョおっ母さん 作詞:、作曲:• 故郷のかおり 作詞:野村俊夫、作曲:船村徹 カバー [ ]• (、アルバム「」収録)• (、シングル「」収録) 出典 [ ].

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