パクス ブリタニカ。 パックス=ブリタニカ

パクス・ブリタニカ

パクス ブリタニカ

第1問 1871年から73年にかけて、岩倉具視を特命全権大使とする日本政府の使節団は、合衆国とヨーロッパ諸国を歴訪し、アジアの海港都市に寄航しながら帰国した。 その記録『米欧回覧実記』のうち、イギリスにあてられた巻は、「この連邦王国の……形勢、位置、広狭、および人口はほとんどわが邦と相比較す。 ゆえにこの国の人は、日本を東洋の英国と言う。 しかれども営業力をもって論ずれば、隔たりもはなはだし」と述べている。 その帰路、アジア各地の人々の状態をみた著者は、 「ここに感慨すること少なからず」と記している。 引用は久米邦武『米欧回覧実記』による。 現代的表記に改めた所もある。 世界の諸地域はこのころ重要な転機にあった。 世界史が大きなうねりをみせた1850年ころから70年代までの間に、日本をふくむ諸地域がどのようにパクス・ブリタニカに組み込まれ、また対抗したのかについて解答欄 イ に18行(540字)以内で論述しなさい。 その際に、以下の9つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付しなさい。 インド大反乱 クリミア戦争 江華島事件 総理衙門 第1回万国博覧会 日米修好通商条約 ビスマルク ミドハト憲法 綿花プランテーション 第2問 人類の歴史において、領土およびその境界はしばしば政治的な争いや取引の対象となってきた。 そして、過去に決められた領土や境界のあり方は、さまざまな形で現代世界の成り立ちに影を投げかけている。 領土と境界の画定をめぐる歴史上の出来事に関する以下の三つの設問に答えなさい。 解答は、解答欄 ロ を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に 1 ~ 3 の番号を付して記しなさい。 問 1 1960年代、ソヴィエト連邦と中華人民共和国との間で政治的な対立が深まり、1969年には、アムール川 黒竜江 の支流ウスリー川にある中洲の領有をめぐって武力衝突が発生した。 この両河川流域の領土帰属は、19世紀半ばにロシアが清と結んだ二つの条約で定められていた。 これら二つの条約が結ばれた経緯とその内容について、4行以内で説明しなさい。 問 2 ゴラン高原をめぐるイスラエルとシリアの係争は、高原の西の境界に関する見解の不一致によっても複雑化している。 イスラエルは a 1923年に定められた境界を、シリアは b 1967年6月4日時点での実効的な境界を主張している。 この背景には、乾燥地帯では特に切実な水資源の奪い合いという問題もある。 下線部 a)・ b に対応する以下の問いに、冒頭に a). b を付して答えなさい。 a この境界は、当時のいかなる領域間の境界として定められたものか、2行以内で説明しなさい。 b この翌日に勃発した戦争について2行以内で説明しなさい。 問 3 ヨーロッパ連合 EU の直接の起源となったヨーロッパ石炭鉄鋼共同体 ECSC は、 ドイツとフランスの間の領土と資源をめぐる長年にわたる争いの解消と永続的な和解の構築を目指していた。 ヨーロッパ議会をはじめとして和解を象徴する諸機関が存在しているアルザスの領有もたびたび独仏対立の一因となってきた。 このアルザスの1648年から第一次世界大戦後に至る帰属の変遷について、4行以内で説明しなさい。 第3問 世界史ではヒトやモノの移動、文化の伝播、文明の融合などの点で、道路や鉄道を軸にした交通のあり方が大きな役割を果たしてきた。 これに関連して、以下の設問 1 ~ 10 に答えなさい。 解答は、解答欄 ハ を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に 1 ~ 10 の番号を付して記しなさい。 問 1 アケメネス朝ペルシアでは、王都と地方とを結ぶ道路が「王の道」として整備された。 そのうち幹線となったのは、サルディスと王都のーつとを結ぶものであった。 その王都の名称を記しなさい。 問 2 「すべての道はローマに通じる」とは名高い格言である。 これらの舗装された道は軍道として造られたものであるがその最初の街道はすでに前4世紀末に敷設されている。 このローマとカプアとを結ぶ最古の街道の名称を記しなさい。 問 3 中世ヨーロッパでは聖地巡礼が盛んになり、キリスト教徒の巡礼の旅が見られるようになった。 ローマやイエルサレムと並んでイベリア半島西北部にあり聖地と見なされた都市はどこか。 その都市の名称を記しなさい。 問 4 中国産の絹が古くから西方で珍重されたことから、それを運ぶ道は一般にシルクロードとよばれる。 この道を経由した隊商交易で、6~8世紀ころに活躍したイラン系商人は何とよばれているか。 その名称を記しなさい。 問 5 シルクロードと並ぶ「海の道J は唐代から中国の産品を西に運んだ。 絹と並ぶ主要産品の一つは、それに因む「海の道」の別名にも使われている。 この主要産品の名称を記しなさい。 問 6 モンゴル帝国では駅伝制度が整備され,ユーラシア大陸の東西を人間や物品がひんぱんに往来した。 とくに中国征服後はすべての地域で駅伝制度が完備した。 この駅伝制度の名称 a)と,公用で旅行する者が携帯した証明書の名称 b を,冒頭に a ・ b を付して記しなさい。 問 7 アメリカ合衆国における大陸横断鉄道の建設は移民を労働者として利用しながら進められた。 それは西部開拓を促しただけでなく合衆国の政治的・経済的な統ーをもたらすことになった。 この鉄道建設が遅れる要因となった出来事の名称を記しなさい。 問 8 オスマン帝国のスルタン、アブデュルハミト2世は各地のムスリム イスラーム教徒 の歓心を買うために,巡礼鉄道 ヒジャーズ鉄道 を建設したが,ムスリム巡礼の最終目的地はどこであったか。 その地名を記しなさい。 問 9 1911年の辛亥革命は,清朝が外国からの借款を得て,ある交通網を整備しょうとしたことへの反発をきっかけとして生じた。 この交通網をめぐる清朝の政策の名称を記しなさい。 問 10 世界恐慌によって再び経済危機に直面したドイツでは,失業者対策が重要な問題となった。 ヒトラーは政権掌握後,厳しい統制経済体制をしいて,軍需産業の振興とともに高速自動車道路の建設を進めた。 この道路の名称を記しなさい。 ……………………………………… [コメント] 配点は20点・20点・20点でしょうか? 浪人生は開示された自分の答案を見てください。 なぜこんなに低い点数なのか、第3問が10題のうち8問正解で、第2問もほとんど正解……これで32点から36点はあり、それに第1問がゼロということはありえない……。 しかし君の計算自体がまちがっていると考えたことはありませんか? 東大の配点は模試の配点のように20点・20点・20点ではないのではないか、という疑問です。 合格者と不合格者の開示された点数と、再現してくれた答案をいくつも比較してみて顕れてくるのは、20点・20点・20点ではないのです。 昨年なら、30点・18点・12点という配点とおもわれます。 第3問の比重は小さく、第1問の比重が非常に大きいということです。 これは採点基準をつくってみても20点・20点・20点では採点できないこと、問題文に配点が明示されていないことからも推測できます。 [第1問の 解き方] この問題を的中したという予備校(K)の掲示を見て笑いころげました。 過去問をテキストに載せたらそれで的中とは。 すると、このホームページも拙著も多くの予備校の論述テキストも的中になります。 いかに浅はかな「的中」か。 1979年のは以下の問題です。 1850年代から1870年代半ばにかけての世界は、さまざまな点で顕著な時代的特徴をもっている。 これは欧米における科学技術の進歩、経済の発展.国際政治の変化、そして、これらにもとづく欧米と他の地域との関係の新展開のなかに認められる。 この時代の特徴を、科学技術、経済、社会、政治の相互連関に留意し、前後の時代をも考慮しながら、600字以内(句読点も1字に数える)で述べよ。 解答には、下記の語句を随意の順序で少なくとも1回は用い、また最初に用いたときに下線で明示せよ。 クリミア戦争 南北戦争 アロー戦争 明治維新 通信手段 鉄道建設 産業資本家 自由貿易 国民国家 この問題の類題と見たらしい。 時間的には「1850年ころから70年代までの間」とあるので50年長くはあっても似ています。 書かなくてはならない時代の様子は浮かびます。 拙著『世界史論述練習帳』は古い1970年代の問題を載せているため、これを非難してこんな古い問題は要らないよ、と書いている人物がいますが恥を感じたでしょうか? しかし、課題はまるでちがいます。 この古い問題は、「時代の特徴を、科学技術、経済、社会、政治の相互連関に留意し、前後の時代をも考慮しながら」という関連づけと前後の比較を問うているのです(前掲書、p. 125-127)。 しかし今年(2008)の問題は覇者のイギリスにどう組み込まれたか、それにどう対抗したかと問うているのであり、関連や前後の時代比較の問題ではありません。 まるで内容がちがう解答になります。 また、「19世紀中ごろから20世紀50年代までの「パクス・ブリタニカ」の展開と衰退の歴史について」(1996)を類題だと見たひともいるらしい。 今年の問題文に「パクス・ブリタニカ」とあるためらしい。 しかし、これは覇者の盛衰だけを問うた問題であり、組み込まれた側の対抗は問うていません。 この問題文には示唆はされてはいました(さまざまな地域において、これに対抗する多様な動きが伴った)。 この問題は対抗を書けとは要求されていません。 時間(30年間)も限定されています。 類題と見る感覚の鈍さに、呆れます。 まして上の二つの問題の合体みたいな問題と説明している予備校(T)もありますが、問題をもっとよく見ろ、と言いたい。 今年の問題は東大らしい独創的な問題でした。 問題そのものの取り方が難しい、というより問い方が曖昧であったため、いろいろな正解が可能な問題でした。 その曖昧さとは、 どのようにパクス・ブリタニカに 組み込まれ、また 対抗したのかについて のうち「組み込まれ」るとはどういうことか、ということと、「また」が並列なのか、それとも前に書いてある「組み込み」にどう対抗したのか、と問うているのか判りにくいことです。 この解釈のちがいで構成・内容もちがってきます。 とすれば、大英帝国と直接かかわり(戦争・衝突)のあったアジア・アフリカの国々は入れなくてはならない。 もしこれだけだととれば、自立的な経済をつくれた国々(独[普]仏露米伊)は組み込みに入らないのではないか、という点。 組み込まれなかったすべての国々も入れて、とにかく「パクス」に圧力を感じた国々も入れる、とすれば自立的な経済国も書いてもいい。 これは「また」を並列ととる構成になります。 1 対抗して自立的経済国になった国々(先進国・列強) 2 組み込まれてしまったが、これに対抗した国々の反抗の事例 1だけでは得点は少ないはずです。 2もいれないと得点は低いでしょう。 組み込みがないからです。 ただわたし自身は、 組み込みと対抗はセットと読みました。 理由は、欧米の先進国を見た後にインド洋周りで帰国する際、引用文にある「アジア各地の人々の状態をみた著者は、 「ここに感慨すること少なからずJ と記し」とある点(この感慨を説明せよ、という課題)、そこから「日本をふくむ諸地域がどのようにパクス・ブリタニカに組み込まれ、また対抗したのか」という問が出ていることを自然にとれば、上の2だけでいいのではないか、とおもいました。 いわば先進国は要らないと。 「対抗」は、向かい合う 相対する 二つのものが、互いに勝ちを争うことです。 欧米諸国がイギリスと向かい合い、相対した、という歴史的な事実があるでしょうか? この時期はイギリスは「光栄ある孤立」外交をしており、欧米列強とは組まないが対立もしない外交を展開していました。 イギリスがドイツ帝国やロシア帝国・イタリア王国・アメリカ合衆国にどのような挑戦をしたのでしょうか? まるで「ブリタニカ」が一人勝ちしていて、他の列強ががまんならず対抗的な国内政策をみなとったのだ、ととるのはどうでしょう? 南北戦争や独伊の統一戦争も農奴解放令も皆イギリスに対抗してやったのだ……、というのは粗雑すぎる議論です。 それぞれの国のもっている事情を無視した強引な歴史観でしょう。 いやイギリスの経済力が何よりも大きく、その圧迫下に列強が対抗できる経済力をつけるべく奮闘した時期なのだ、というならば、もうそういう時期ではない、と答える他ありません。 問題の時間範囲では1880年まで入るのであり、「1870年代以降、世界的な不況やほかの工業国との競合に直面すると、保守党のディズレーリ首相はスエズ運河会社の株式を買収して1875年運河の経営権をにぎり、露土戦争にも干渉して……」(詳説世界史)と記すように米独の追い上げがきつく第二次産業革命の技術にも出遅れていくのであり、この教科書の記述のようにイギリスの方が対抗手段をとらざるを得なくなってきた時期でもあります。 この教科書の初めにある「世界的な不況」とは大不況(1873-96)のことであり、問題の時期と重なっています。 ネットの解答では「イタリアやドイツでは国民統合が進み、ドイツのピスマルクは保護関税法で工業発展をとげ、またロシアも農奴解放令を軸に改革を開始した」(K)とあり、 「南部は経済的に英国に従属していたが、連邦政府は1861年~65年の南北戦争で対抗し、南部を破って再統一に成功した。 英国製品の輸出にさらされたドイツではビスマルクは鉄血政策により統一に成功した」(S)とあり、 「圧倒的な経済力に対抗して、イタリアが統一されたほか、ドイツでもプロイセン首相ビスマルクの鉄血政策により国家統一が実現し、国民経済の確立・保護が目指された。 クリミア戦争に敗れたロシアでは、農奴解放が行われるなど近代化が図られた。 アメリカでは綿花プランテーションでの奴隷労働を不可欠とする南部と商工業の発展が進む北部の利害が対立して勃発した。南北戦争に北部が勝利して国家統合を実現し、保護貿易によりイギリスの経済力に対抗した。 」(T)とあります。 これらはすべて要らないとおもいます。 いくらなんでも、イギリスの圧迫下に統一戦争や南北戦争・農奴解放をおこなったとは言えないのではないでしょうか? 指定語句のビスマルクやクリミア戦争があることから、類推して、あるいは欺されて、テーマからはずれていながら欧米諸国の近代化も入れた、ということではないか。 欧米諸国が「組み込まれた(植民地化・半植民地化・その危機にあう)」ことはないので、この時期の重要な事件を、なんでもかんでもイギリスのせいにしてしまっていいのか? と疑問です。 ある予備校(T)のように、採点基準をつくってみても問題がよく分かっていない基準では無意味です。 合格した受験生たちの再現してくれた答案を見ても、欧米諸国のことは書いていないのではないが、どちらかというと簡略にしていてアジア・アフリカのことに集中しているのが、このわたしの考えを補強するものです。 組み込みとはイギリスの政治的経済的支配の歯車・駒になったことを示さなくてはなりまません。 とくに経済的支配の一環・部分・片割れになったことを示す必要があります。 インドなら「第一次産品の輸入・製品の輸出」(S)では今ひとつです。 教科書に書いてあるように、「植民地政府の最大の目的は,より多くの富を効率よく収奪することにあった。 最大の収入源は地税であった。 ……ザミンダーリー制や……ライヤットワーリー制……人びとのなかから1人だけが選ばれて土地所有者とされ,ほかの人びとの従来の権益は無視されたため,それまでの共同体的な人と人との関係が大きく変化……機械製綿布が流入してインド製品を圧倒しはじめ,1810年代末には輸出入が逆転した。 こうしてインドは,綿花やアイ・アヘンなどの一次産品を輸出し,イギリスから製品を輸入する立場へと転落した」(詳説世界史)と。 拙著『センター世界史B各駅停車』でも徴税を強調しています(p. 101)。 だがこの近代的土地所有制と徴税に言及した解答はネットでは見られません。 また綿花プランテーションをたいてい合衆国でつかっているのですが、合衆国内でも綿花はつかっているのであり、綿花輸出の利益を得ているのは北部の商人です。 組み込みとしては弱いですね。 工業製品はしっかり保護関税で守っています。 南北戦争のときに早い段階でイギリスが中立の立場を打ち出しているのも北部とは対立しない方が利益があると考えたためのようです。 メキシコのように干渉していません。 トルコ(オスマン帝国)なら、「西欧化改革 タンジマート ……ヨーロッパ工業製品の流入は土着産業の没落をうながし,外国資本への従属がかえってすすんだ。 」(詳説世界史)と教科書にあります。 ネットの解答では何を勘違いしたのか、露土戦争前後の政治史(タンジマート・ビスマルク・ミドハト憲法)を書いて満足しているものがほとんどです(S・Y・T)。 組み込みが書けない。 指定語句のクリミア戦争(1853-56)は組み込みの例として使えばいいでしょう。 しかしこの問題の課題は対英であって、対露ではないのです。 勘違いしています。 この戦争でトルコは、英仏サルデーニャの援助下で勝利国になったものの、このときの借金が払えずサラ金地獄に陥ります。 ここでロシアの南下失敗を説明しても無意味です。 露土戦争(1877-78)も時間の範囲内なので、ここで指定語句のビスマルクも使えば、その調停者「誠実な仲買人」の親英的な調停でトルコはますます苦境に陥ります。 中国(清朝)は指定語句に総理衙門(総理各国事務衙門)があるため組み込みを書かないでいきなり対抗面を書いたり、「アロー戦争に負けた」で組み込みを書いたつもりでいるもの(S)もあります。 「アヘン戦争の敗北は,清朝の威信を地におとした。 アヘンの密輸入は公然化し,銀の流出は銀価の高騰に拍車をかけた。 」(東京書籍)、「香港の歴史……アヘン貿易と苦力貿易,綿製品取り引きにより莫大な富が蓄積」(清水書院)ということくらい書けないのか。 アヘン戦争は時間的に書けませんが、状況はアロー戦争後も変わっていないのです。 またイギリス人による海関の管理に言及したものはありません。 1843年の虎門寨追加条約以来、イギリスの税関吏(海関の総税務司)が清朝の財政を滅亡まで牛耳っていました。 清朝の貿易の利益を吸い上げ、使い道をアドバイスしていたのはこの人でした。 またハートは事実上の清朝の政治顧問でもありました。 日本におけるイギリスの進出は金銀比価を利用した貿易だけでなく幕末の内紛を利用した武器市場と化しました。 長崎のイギリス商人から大砲(アームストロング砲)、鉄砲(ミニエー銃・ゲベール銃)、軍艦(江華島事件の雲揚号はイギリス製)を買い、討幕になったのです。 他に機械(採炭・造船・製鉄・紡績など)火薬・自転車・蒸気機関車・時計を買っています。 経済的には半植民地状態です。 ネットの解答の中で日本の組み込みを書いた答案は皆無です。 「日本をふくむ諸地域がどのようにパクス・ブリタニカに組み込まれ」という課題をいつのまにか忘れたようです。 呑気なこと。 日米修好通商条約はイギリスでなくアメリカとの条約(1858)ですが、同内容のものは、露・蘭・仏・英とも結んでいます(安政の五カ国条約)。 イギリスの組み込みが課題ですから、この不平等条約については「と同様の条約を英国と結んだ」とでも書いておきます。 ただこの条約を結んだとか、「開国した」、「国際貿易に参入」したということでは、どう組み込まれたかが不明ですから、その不平等性(関税自主権の放棄、領事裁判権)か上記のことを書きます。 日本のように組み込まれる危機のあった国としてはタイもあげられます。 ラーマ4世(モンクート王、位1851-68)はボーリング条約(タイ・イギリス友好通商条約)という治外法権や関税の制限などを認めた不平等条約をむすび(1855)、翌年,アメリカやフランスとも同様の条約を締結しています。 タイとともにエジプトに言及した解答も見つけることはできません。 教科書には「近代化を急ぎ,また戦争によって莫大な債務をかかえこんだエジプトは,1860年代からイギリス・フランスの財務管理下におかれ,内政の支配もうけるようになった。 」(詳説世界史)と書いてあります。 アイルランドに言及したものも見つけられません。 となりの島はイギリスの財源でした。 小麦と労働力です。 教科書には、「イギリス人の地主のもとで小作人の地位におかれていたアイルランド人の不満は絶えず,土地の返還と自治権獲得を要求する運動が続いた。 」(山川の要説世界史)と。 つまり小作料も収穫もイギリス人地主がもっていきます。 都市工業の労働力はアイルランドの出稼ぎ労働者に頼っています。 答案を再現してくれた合格者の中にはラテンアメリカに言及したものもありましたが、ネットの中でラテンアメリカを書いた答案を見つけることはできません。 後ほど低くなります。 後ほど執筆(答案作成)時間は長くなります。 受験生はまったく教科書も参考書も見られない、つまりカンニングできないが、後の人たちほどたくさん調べられます。 それがこんな結果になるのは実に不思議です。 時間をかけてもカンニングをしてもレベルの低い解答しか作れない。 今回の問題にたいする答えもそうでした。 ラテンアメリカのことは教科書に書いてあることです。 「メキシコ以南のラテンアメリカ諸国は……はやくからアメリカ合衆国の経済進出があり,南アメリカでは19世紀末まで,イギリスが市場を支配していた。 」(詳説世界史)と。 」と教科書にありますが、どうして合衆国でなくイギリスなのですか? の答えを見られたい。 また過去問(1976)の史料もそのまま組み込みを表わしていました(e アルゼンチン経済の特色は,大土地所有下の農場・牧場がイギリスに輸出するための食肉・小麦を生産しているところにある。 イギリス系の鉄道はこれら農牧場をもっぱらブエノスアイレスに結びつけている。 その結果アルゼンチン経済の発展は,むしろ妨げられ,ゆがめられているのである。 ) 対抗は指定語句からは、インド大反乱、江華島事件、総理衙門、ミドハト憲法が使えます。 これだけでは少なすぎますが。 上に書いた組み込みと対応した順で説明していきます。 まずインド。 「インド大反乱」はネットでは「インド大反乱を鎮圧し,ムガル帝国を消滅させ東インド会社を解散,直接統治を始め……」という風に経過(流れ)として書いているのですが、これで「対抗」を書いたことになるのか? 全国的な反英運動になったこと(詳しくはアワドの反乱・ジャーンシーの反乱)、「旧支配層や旧地主層,農民,手工業者など,イギリスの支配によって没落した多くの層の人々が参加」(東京書籍)を書きたいところです。 この大反乱の後に、「藍(あい)の反乱」(1860~61)といってベンガル農民が耕作拒否や工場襲撃などの反英運動をおこないました。 また、デカン農民一揆(1875)という高利貸襲撃運動もありました。 バネルジー(1845~1925)というイギリスに解雇された官僚が反英の組織「インド人協会」を設立 1876 します。 経済的な対抗としては、イギリスの鉄道建設からインド側の民間資本(民族資本)による鉄工業の勃興もありますし、綿業・ジュートの工業も起きてきます。 このあたりは過去問(1976、h 鉄道に直接関係のない工業部門でも、機械が応用されるようにならざるをえない。 そこで、インドにおける鉄道網は、まさに近代工業の糸口となるであろう)の史料を利用します。 1854年にパールスィー(ペルシア人)商人がボンベイに綿紡績工場を設立したのが最初です。 これらのことを書いた答案も皆無です。 トルコの場合は一時的ではありますが、ミドハト憲法の制定(1876-78)があります。 これはアフガーニー(1838~97)やムハンマド=アブドゥフ(1849~1905)が担いました。 「ヨーロッパ諸国の進出と領土の分割をめぐる覇権争い 「東方問題」 の激化は,西アジア諸国の民衆に民族の自覚をうながし,イスラーム教徒としての連帯の必要性を痛感させた。 各地で民族主義とパン=イスラーム主義を説いたアフガーニーの思想は,エジプトのウラービー運動やイランのタバコ=ボイコット運動に大きな影響をあたえた。 」(詳説世界史)と教科書にもあります。 もっともタバコ・ボイコット運動は1890年代なので運動そのものは書けません。 しかしウラービーの運動はウラービー革命として1879-82年の運動として見る見方もあり、書いても時間的なまちがいではありません。 中国の場合は、総理衙門を設置した(1861)と書けばそれで「対抗」したことにはなりません。 北京条約(1860)で外国公使の駐在が決まり、英仏の要請(強要)もあってつくった欧米諸国との外交事務専門の新官庁です。 この官庁の中にイギリス課、フランス課、ロシア課、アメリカ課などと部署も設けられました。 この新官庁の名前だけ書いても対抗にはならないはずです。 むしろこの官庁が軸になって洋務運動(1862-90年代)を展開したことが対抗になります。 この洋務運動は中国にとっての工業化であり、機械工業の始まりです(小島・丸山共著『中国近現代史』岩波新書 p. 日清戦争で敗戦したから挫折したというほど柔なものではありません。 日清戦争後もこの機械工業は発展します。 また官僚と買弁(ばいべん、外国商人の下請けを行ない中国国内での売買の代行者)による資本も育ってきます。 ある受験生が社会の試験が終わって、となりの受験生が「利権回収運動カンペキだぜ」といって誇っていて、これって自滅ですね、と報告してきました。 利権回収運動は「1904年、清朝から粤漢線の敷設権を得ていたアメリカの企業が、南端の一部分を敷設しただけで、株の三分の二をベルギー資本に売却し、これが同線の主要部を建設することになった。 これに対して、広東、湖南、湖北で抗議の世論が沸騰し、ついで外国資本に握られた鉄道と鉱山の利権を回収し、自力で建設・経営しようとする運動が各地に起こってきた」(小島・丸山共著の前掲書 p. 67)とあるように20世紀初めからです。 教科書でも辛亥革命の直前のところで書いています(詳説世界史)。 民間では、太平天国の乱(1850-64)が反英対抗運動といっていいでしょう。 教科書「アヘン戦争による多額の出費と賠償金の負担は,重税となって民衆を苦しめ,また広東貿易の体制が一変して華中や華北に貿易の中心が移ったため失業者がふえ,不満が爆発して太平天国の動乱がおこった。 」(山川の新世界史)のように、アヘン戦争以降の中国民衆への圧迫がこの乱をおこしています。 淮水流域の捻軍(ねんぐん)とも合流しています。 日本の対抗策は江華島事件という指定語句に表わされています。 明治維新(1868)という新体制への転換そのものも対抗策です。 新国家として登場した日本は、さらに欧米の植民地や保護国になるかもしれない危機から逃れるため、主権をもった独立国家として国際的に認知されることが必要でした。 そのために史料文の遣欧使節があり、不平等条約の改正が課題でした。 また周辺の国々は中国と冊封体制の下にあり、まず琉球(沖縄)を廃藩置県とともに鹿児島県の管轄下に置きます(1871)。 さらに琉球廃藩・沖縄県設置を断行して(1879、琉球処分)清朝への朝貢関係を切ります。 その間、琉球島民が台湾に漂着して殺害されたことから日本が出兵して、琉球が日本領であることを示す示威行為もありました(1874)。 これは最初の海外派兵でした。 これに激しく反発したイギリスが交渉役になり、宗主国清朝から賠償金50万両を日本に支払うことで日本軍が撤兵します。 もうひとつの朝貢国である李氏朝鮮にたいしては雲揚号よる徴発(江華島事件)から始めて日朝修好条規(1876)をむすび開国させます。 これは不平等条約であり、かつ無関税の貿易権もとります。 日本の危機を朝鮮におしつけて解消しようとしています。 タイの危機にたいする対抗策は明治天皇とほぼ同じ在位であったラーマ5世による近代化政策(チャクリ改革)に現れています。 地方の独立的な藩王・知事たちの権限をけずり、県郡町村の地方制度で中央集権国家にしあげ、近代的軍隊・学校・病院・郵便局をつくり、奴隷制を廃止しアヘンを厳禁しました。 全国の交道路網も整備しました。 英仏の圧迫に抵抗したとしても領土は削られ、なんとか独立を維持しました。 アイルランドは教科書によく書いてあります。 「アイルランドではジャガイモ飢饉以来、アメリカへの移民が急増するようになった。 1858年、彼らは急進的な秘密結社フェニアンを結成し、アイルランドの自治をイギリスに要求した。 これに対し、グラッドストーン内閣は、……」(三省堂)と。 細かいですが、イギリス議会の議員集団として「アイルランド国民党」(1874~1918)が結成され、アイルランドの自治権獲得をめざしました。 ラテンアメリカの対抗例としては、乏しいデータの中で教科書があげているのはフアレス(メキシコ大統領、任1861~72年)の改革とメキシコ干渉です。 拙著『各駅停車』ではこう書いています。 インディオの血も混じった革新派のフアレスです。 軍隊と教会の権限を削り、男子普通選挙権、大統領直接選挙などを憲法で決めていくと、保守派は別の政府をつくって対抗しますが、フアレスの改革派が勝ちます。 しかし西欧諸国からの借金が返せないため、貸している側のイギリス・スペイン・フランスの武力干渉をうけることになりました。 これは西欧側からの表現で「メキシコ出兵」で、ナポレオン3世はメキシコを植民地化しようと他の国々が撤退してもしつこく軍を残しましたが失敗します。 これは教科書に書いてない事件です。 対抗例としては、他に南アフリカの差別と分断に対して反英ズールー戦争、オーストラリアでの土地略奪に対するマオリ族の抵抗などもあります。 これらは細かいので書けるひとは極少でしょう。 [第2問の 解き方] 問 1 1978年の第2問に、以下のような問題がありました(こちら)。 (A)つぎの河川が境界線とされるに至った経過と、これをめぐる現代国際政治上の争点とを(ア)、(イ)、(ウ)についてそれぞれ3行(1行は35字)以内に要約して述べよ。 (ア)アムール川(黒竜江)・ウスリー川 (イ)ヨルダン川 (ウ)オーデル川・ナイセ川 問い方や字数はちがいますが、これは類題といっていいでしょう。 今年の問 1 は(ア)、問 2 は(イ)に該当します。 「19世紀半ばにロシアが清と結んだ二つの条約」は2年差で、アロー戦争の仲介をしたロシアと清朝の国境条約です。 国境条約としてはネルチンスク条約・キャフタ条約に次ぐ3・4番目のものです(カタカナの字数が少なくなる)。 1858年の条約では、黒竜江以北をロシア領とし、沿海州は両国の「共有(共同管理)」と規定しました。 ところが再開したアロー戦争の再仲介で、1860年に結びなおした条約で、沿海州は完全にロシアが取得しました。 この年からロシアはウラジヴォストーク市(東方[ウォストーク]を征服せよ[ウラジ]という意味のロシア語)の建設をはじめます。 日露戦争でバルティック艦隊はここをめざして日本海に入りました。 日本は、ここからシベリア出兵をおこないます。 ネットの解答例の中には初めの愛琿条約で沿海州が共同管理になったことを指摘しない解答があります(K・S)が、これは満点にならない書き方です。 「両河川流域の領土帰属……二つの条約」と問うているのですから。 これはセンター試験レベルです。 トルコとの戦後が改訂されて結ばれた条約です(拙著の前掲書、p. 158-9、ここに地図と解説)。 委任統治領として北のシリアをとるフランスと南のパレスティナをとるイギリスとの境界線です。 これもセンター試験レベルです。 「ゴラン高原 Golan」って知ってますか? 地図で確かめてください。 シリア南西部の高原です。 戦略上の要地で、1967年にイスラエルが占領したところです。 他に第三次中東戦争でイスラエルが占領した3地域をあげなさい、と問われて答えられますか。 これはセンター試験レベルです(前掲書、p. 166の地図、p. 168に覚え方)。 問 3 アルザスの1648年から第一次世界大戦後に至る帰属の変遷、という問題は京大(1999)でも出題されました。 独仏国境に位置するアルザス・ロレーヌ地方の住民は、両国が戦火を交えるたびに国籍の変更を迫られた。 19世紀半ばから今日までの独仏関係を中心に、この地方の歴史を300字以内で説明せよ。 この東大の問題は、時期が前のほうにずれていること、ロレーヌ(ドイツ語ではロートリンゲンLothringen)のない点がちがっています。 1648年を起点にしたためロレーヌは入れにくいからです。 アルザスは全部ではないものの、この年の条約でフランス領になっていますが、ロレーヌは1736年までロレーヌ公爵領であり、1766年に完全にフランス領となり、1871年普仏戦争に敗れたフランスは,ロレーヌをドイツに割譲しています。 ドイツとフランスの間を骰子(さいころ)のように振り転がされた地方です。 この骰子がどちらに転がったかを5つつづればいい。 先も書けば、第二次世界大戦中にドイツ領となり、戦後はフランス領の順です。 アルザスといっても日本人に馴染みはないですが、クリスマス・ツリーのはじまったところらしく、またシュワイツァー博士、ワイラー映画監督、ドレフュス事件のドレフュス家などがここの出身です。 第3問 問 1 解答の「スサ」はセンター試験レベルです(過去問では01追、98追、97、92)。 ハンムラビ法典の発掘地としても知られています。 問 2 「アッピア街道」もセンター試験レベルです(05追)。 そこに「イベリア半島北西部のガリシア地方に位置するサンティアゴ=デ=コンポステラは、1)キリスト教の重要な巡礼地の一つで……」とあります。 用語集では頻度2で、できなくてもいい問題でした。 問 4 「6~8世紀ころ(隋唐)に活躍したイラン系商人」が「ソグド(商)人」であることもセンター試験レベルです(04、00、96、92、90)。 陶磁器はセンター試験レベルであることは言うまでもありません(06、03追、01追、00追、99、98、95、90)。 問 6 a ジャムチ 姑赤、たんせき もセンター試験レベルです(08、02追、00、95追)。 ただし b 牌符 牌子 というパスポートはセンター試験に出題歴がありません。 用語集では頻度7で高くなってきました。 問 7 これは面白い設問ですが、完成が1869年(スエズ運河と同年、『世界史年代ワンフレーズ new』(パレード)運河・鉄道で人 1は 8ロ 6ケ 9ット)ということから推理できるのは「南北戦争」しかないでしょう。 横断鉄道の建設計画は、1840年代からあり、とくにオレゴン 1846 領有と米墨戦争によってカリフォルニア 1848 獲得となってから,大陸横断鉄道建設の必要が叫ばれます。 南北戦争 1861-65 中の1862年に議会で承認されて、翌年から建設が始まり、途中から戦争が終わった軍人も労働力となり、中国人労働者(苦力)もアイルランド人移民も加わり完成したのが1869年でした。 問 8 「ムスリム巡礼の最終目的地」これも昨年(2007)のセンター試験に地図が出ていました。 問 9 これもセンター試験レベルです(01追、94、89)。 センター試験は、どれも鉄道国有化と辛亥革命が関連づけた問題でした。 問 10 「アウトパーン」はセンター試験に出題歴がありません。 聖火ランナーが走るための道路でもありました。 第二次大戦のときに、このアウトバーンが軍事利用され第三帝国への道ともなります。 (わたしの解答例) 第1問・第2問 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

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パクスロマーナの意味とは?五賢帝につながる世界史頻出用語を解説!

パクス ブリタニカ

アントニヌス・ピウスは、奴隷解放の条件を緩和するなど、人権問題に切り込んだ皇帝です。 彼の時代は大きな事件や戦争がなく、平和でした。 劇場や神殿の建設も行い、文化・芸術の発展に寄与します。 ちなみに、慈悲深いという意味の「ピウス」という名前は後から授かった名前です。 元老院から嫌われていた先帝・ハドリアヌスを祀ろうとして大反対されましたが、元老院を献身的に説得し続けたことから「慈悲深いアントニヌス(アントニヌス・ピウス)」と呼ばれるようになりました。 楽天で購入 彼の時代は、異民族の侵攻が激しくなり、自ら軍の指揮を取って度々出征していました。 出征先で病死し、彼の実子であるコンモドゥスが次の皇帝に即位したことによって、五賢帝の時代は終わります。 当時は東西交渉が盛んで、マルクス・アウレリウス・アントニヌスは中国に使者を派遣したことでも知られています。 後漢の記録には、彼の名前が「大秦王安敦」と記録されています。 五賢帝の後の時代 五賢帝の最期の一人、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの跡を継いだコンモドゥス(マルクス帝の息子)は非常に暗愚で、最終的には側近に暗殺されてしまいました。 この記事の目次• パクスロマーナから派生したさまざまな地域の平和(パクス~)とは? 「パクスロマーナ」という言葉が広く知られたことにより、「強大な一国がもたらした平和」という意味で「パクス~」という造語ができるようになりました。 今回は、「パクス~」と名付けられるほど繁栄した3つの国を紹介します。 パクスブリタニカ:「太陽の沈まない国」と呼ばれたイギリスの黄金期 パクスブリタニカとは、19世紀半ば~20世紀初頭の大英帝国時代のイギリスの繁栄を表しています。 イギリスは、産業革命による経済力や工業力、軍事力を背景にさまざまな地域に植民地を形成し、諸国を圧倒させました。 この時代は、他国との戦争や衝突も少なく、比較的平和です。 植民地を多く持っていたので、「太陽の沈まない国」と呼ばれました。 [ad co-1] パクスモンゴリカ:広大な領土を誇ったモンゴル帝国 パクスモンゴリカとは、13世紀~14世紀にモンゴル帝国がユーラシア大陸の覇権を握ったことを表しています。 モンゴル帝国は、中国の元、イル=ハン国、チャガタイ=ハン国など、国を分けなければいけないほど広大な領土を持つことになります。 また、モンゴル帝国が大陸を統一したことによって、この時代に物流が盛んになり、商業が発展しました。 パクスアメリカーナ:20世紀、超大国となったアメリカの覇権 パクスアメリカーナとは、20世紀以降のアメリカが世界の覇権を握ったことを表しています。 始まった時期は3つの説がありますが、ここでは一般的である第2次世界大戦後の時期を紹介します。 第2次世界大戦後、アメリカとソ連の2国が覇権を握りました。 ですが、ソ連1国が覇権を握ろうとしなかったのは、アメリカがソ連に対抗できるほどの軍事力を持っていたこと、何より核を所持していたことが大きいのです。 アメリカが「抑止力」であったことで、世界に平和がもたらされました。 [ad co-1] まとめ 今回は、パクスロマーナという言葉の意味や歴史について解説しました。 パクスロマーナや他の派生語について、共通することは全て超大国であるということがポイントです。

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パクス・ブリタニカとは

パクス ブリタニカ

第2次産業革命の進行と企業間競争の激化により、資本の集中が進む。 銀行資本と産業資本が融合し、 金融資本が成立する。 さらに、不況にあわせ、資源供給地・輸出市場としての植民地の重要性が増し、列強間の植民地獲得競争が激化する。 独占資本を支えにして、帝国主義が形成される。 植民地獲得競争のなかに、欧米諸国のアジア・アフリカへの軽視、軍事的な優越意識があったことは否めない。 第2次産業革命と1870年代の不況の2つが大きな要因だといえます。 第2次産業革命 第1次産業革命と比較するとわかりやすいです。 時期 中心国 エネルギー源 内容 第1次産業革命 18世紀後半 イギリス 石炭 木綿工業を中心とする 軽工業部門での技術革新 第2次産業革命 19世紀後半 ドイツ、 アメリカ 石油、 電力 鉄鋼・造船・化学工業を中心とする 重工業部門での技術革新 重工業と、石油・電力エネルギーの利用には、 莫大な資本が必要です。 そのため、企業の集中が進み、 金融資本が成立しました。 第1次産業革命から第2次産業革命にかけて、 中心国がイギリスからドイツ・アメリカに移ったことは、ドイツ・アメリカ両国の工業力の相対的な向上を示します。 独占資本の形態 独占資本は大きく3つの形態に分類できます。 名前だけでなく内容もイメージできるようにしましょう。 カルテル 主に ドイツで発展。 同一業種の企業が価格・生産量を協定し、市場の独占を図ること。 企業連合ともいいます。 トラスト 主に アメリカで発展。 同一業種の企業が同一資本に統合される独占形態のこと。 企業合同ともいいます。 トラストは企業の競争を不自由にするため、アメリカでは シャーマン反トラスト法 1890年 をはじめとした反トラスト法が何度も定められています。 コンツェルン 多業種の企業が同一資本に統合される独占形態のこと。 列強間の帝国主義の対立 列強諸国で帝国主義が形成されるなかで、列強間の格差が生まれました。 工業力・資本力で優る イギリス・フランス・ドイツ・アメリカが上位、工業化の遅れたイタリア、民族運動への対応に追われた ロシア・オーストリアが下位に位置しました。 帝国主義国家間の対立は、第一次世界大戦へとつながります。 対立が激化したきっかけは、ドイツで ヴィルヘルム2世が即位し、植民地の再分割を要求するとともに、 世界政策とよばれる積極的な対外膨張政策を始めたことです。 ドイツでは19世紀後半、 ビスマルクが外交を握っていました。 ビスマルクは、ドイツの国力が追いつかないまま海外進出するのは危険と考え、フランスの孤立を基軸としたイギリスとの融和路線を採っていました。 しかし、 1890年に即位したヴィルヘルム2世は、ドイツの国力は海外進出に十分と考え、ビスマルクを辞任させ、世界政策に乗り出しました。 良好な関係を保っていたイギリスに公然と挑戦し、ロシア・フランスとも対立することで、列強間の抗争が激化します。 おわりに 今回は帝国主義の時代の概説をしました。 次回からは各列強国 イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・アメリカ の詳しい動きを見ていきます。 19世紀末から第一次世界大戦直前までの外交情勢は、 ビスマルク外交を理解していないと動きがわかりづらいです。 しっかり復習しておきましょう。

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