余部鉄橋列車転落事故。 余部事故の原因と対策等に関する質問主意書

余部鉄橋の今

余部鉄橋列車転落事故

兵庫県香美町のJR山陰線余部(あまるべ)鉄橋のコンクリート橋への掛け替えに伴い、4年前に旧橋脚を利用して整備された展望施設「空の駅」(高さ約40メートル)が鉄道ファンや観光客の人気を集めている。 今年11月、地上から施設と隣の餘部(あまるべ)駅につながる高層エレベーター「余部クリスタルタワー」が完成し、利便性が増したためだ。 橋の下の余部地区の住民にとってもエレベーター設置は「100年来の悲願」だった。 明治期に東洋一といわれた鉄橋が完成しても地元に駅はなく、通勤や通学で長年不便を強いられただけに特別な思いを抱いている。 (谷下秀洋) エレベーターで利便性向上 「空の駅」は、県が旧余部鉄橋の西側の橋脚の一部を保存・整備したもので、平成25年5月にオープンした。 しかしエレベーターがなく、急勾配の上り坂が利用者の大きな負担になっていた。 そこで香美町が約6億5千万円かけて地上と展望施設を結ぶエレベーターを設置。 今年11月26日に利用開始され、橋の西側の餘部駅へのアクセスともなっている。 エレベーター(棟は高さ47メートル)は全面ガラス張りの15人乗りで、展望施設まで日本海を眺めながら約40秒で到達。 午前6時から午後9時半まで利用でき、夜間はLED照明で7色にライトアップされる。 鉄橋から取り残された集落.

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「余部鉄橋列車転落事故」くろまめたろうのブログ | くろまめたろうのページ

余部鉄橋列車転落事故

転落した客車は橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場が全壊、民家が半壊した。 回送列車であったため乗客はいなかったが、工場の従業員だった主婦5名と列車に乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った[102][103]。 なお、重量のある機関車が転落を免れたことと、民家の住民が留守だったことで、機関士と民家の住民は無事だった。 しかし事故後、機関士の上司は責任を感じて自殺した。 この橋梁からの列車の転落は、橋の完成以来初めての惨事だった。 国鉄の記録では、事故の時点で風による脱線は全国で16件あり、そのうち鉄橋からの転落は3件あったが、鉄橋からの転落で死傷者が発生したのは、1899年(明治32年)10月7日に日本鉄道(現在の東北本線)矢板駅 - 野崎駅間箒川橋梁からの客車の転落で20人が死亡45人が負傷した箒川鉄橋列車転落事故以来87年ぶりのことであった[104]。 2回目の警報が作動した際には、列車に停止を指示する特殊信号機を作動させてももう列車を止めるためには間に合わないという理由で、列車を停止させなかった。 こうした理由により、突風の吹く鉄橋に列車が進入する結果となった[102]。 事故後、のべ344人の作業員を投入して枕木220本とレール 175 m の取り替えを行い、事故の遺族からの運転再開容認を31日10時30分に取り付けて、15時9分に事故後の最初の列車が鉄橋を通過した[105][106]。 1987年(昭和62年)2月9日に松本嘉司東京大学教授を委員長として「余部事故技術調査委員会」が発足し、国鉄分割民営化後の1988年(昭和63年)2月5日に調査報告書がまとめられた。 調査では、橋に取り付けられていた2台の風速計のうち1台が故障しており、もう1台も精度が落ちていたことが判明した。 また風速計による警報が出た後に、指令員の判断を介して列車に停止の指示をする仕組みであったことも問題視され、自動的に停止の指示を出せる仕組みにするべきであるとした[105][107]。 これらにより、車両転覆の直接の原因は転覆限界風速を超える横風によるものと結論づけられた[101]。 それによれば、昭和40年代の補強工事で縦横の剛性比の考慮を欠いたまま水平方向の部材のみを強化してバランスを崩し、また橋脚の基礎をコンクリートで巻き立てたために主塔の撓み量が減少して、風によるフラッター現象を起こしやすくなっていたとする。 そして、当時の強風によりフラッター現象を起こしていた橋に列車が進入した結果、機関車が蛇行動を起こしてレールの歪みを生じ、両端の客車に比べて軽かった中央付近の客車が脱線して、両端の客車を引きずるように転落に至ったのが本当の事故原因であるとしている[108]。 この主張は他の書籍などでも紹介されることがある[109]が、指令員の責任を追及した刑事裁判でも、事故の調査報告書でも一切触れられていない[110]。 列車を停止させなかった責任を問われた福知山指令室の指令長および指令員計3名に対しては、1993年(平成5年)、禁固2年から2年6か月の執行猶予付き有罪判決が出され、確定した[112]。 1988年(昭和63年)10月23日に事故現場に慰霊碑が建立された[113]。 また事故後毎年12月28日には法要が営まれてきたが、2010年(平成22年)が25回忌の節目となったことと、新橋への切り替えが行われたことから、同年12月28日に遺族会により行われた合同法要が最後となった[114]。

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1986年8月~1987年8月 余部鉄橋

余部鉄橋列車転落事故

時間はたっぷりある。 何も山の中を走る高速に乗ることもあるまいと、山陰海岸沿いを往復することにした。 地図を見ていて道の駅が極めて少ないことに気がついた。 舞鶴を越えると鳥取までに余部にあるだけだ。 「あまるべ」、鉄道に多少なりとも興味を持った者には、懐かしい地名である。 例の鉄橋があったところである。 あの大事故はいつごろだったか。 その後、鉄橋は架け替えられたという。 地名はなつかしいが、例の鉄橋が見られるわけではない。 取り立ててどうのこうのということもあるまい。 軽い気持ちで車を走らせた。 「いらんといわはっても1万円ほど安くなるだけですわ。 目つむってつけといてください」そんないきさつでつけることになったカーナビなるものが今の車についている。 そのカーナビが、丹後半島のどこやらを越えてから「当分道なりです」と言うたまま1時間以上も無言のままである。 田舎の道は気楽やのうと気を許していたら、香住とやらを過ぎたあたりで、右や左やと急に騒ぎ出した。 お前こんなところで急になんやねん。 ・・・・気がついたら「無料区間」との但し書きがついた高速に乗せられていた。 それはいいんだけど、余部の道の駅へは寄りたい。 どないなるんやろと心配していたら、標識があって余部で終点とある。 ということは降りろということやな。 もう一度、右や左やと大騒ぎをして、飛び出した一般道の行く手正面に新しい鉄橋が立ちはだかっていた。 道の駅は新しい鉄橋の真下にあった。 車を置いて道路の向こうを見るとちょっとした広場があって、「山陰本線余部橋りょう」と大書した橋梁本体が横たえられていた。 なるほどとは思ったが、こんなところへたった一つ、ポンとほったらかして・・・との思いが強かった。 道路を渡って近づいてみると、しっかりした説明板もあって、少なくともええ加減に放り出してあることではないことがわかってきた。 それはええ、それはエエのやけど、あんなに高いところにあったものを地べたに置いて、これが山陰本線余部鉄橋の橋梁でございます・・・・。 それはないわなー。 とりあえず大まかなことだけを。 上の写真は案内板のトップの写真を無断で借りてきた。 要するにこんな鉄橋である。 高さ41m。 長さ309m。 着工1909(明治42)年12月、完成1912(明治45)年1月。 鋼材重量994t、リベット数約67,000本。 以上案内板からの受け売りである。 最後に出てきたリベット、これが分からないだろう、若い人には。 日本語でいうと「鋲(びょう)」。 そうか、これも死語か。 仕方ないわな、見たことないんだから。 まあ2枚の鉄板を合わすのに、穴を2枚揃えて開けて、釘の大親分みたいなやつを通して、両側からたたいてかしめる。 「かしめる」が分からないだろうが、リベットを両側からつぶしてしまう。 ねじならゆるめることも可能だが、リベットはかしめた以上簡単には分解はできない(写真右・この写真の中でリベットは何本見えるでしょう)。 どうでもエエ話。 なんでこんなところに、こんなバカでかい鉄橋をかけたのか。 山陰本線、を、できるだけ短く、かつできるだけゆるい勾配で結ぶために苦心惨憺した結果、最後の結論がこれだったという。 新橋梁 橋長 310.6m 高さ41.5m 着工 2007(平成19)年3月 完成 2010(平成22)年8月 事業費 約30億円 橋が残されていた と、以上のことを勉強して(もちろん現場でバシャバシャ写真を撮って、帰ってきてからそれを読んだだけだけど)、改めて後ろを振り向いて驚いた。 なんと旧い橋の一部が残っていたのである。 いや、橋が勝手に残るはずはない、残されていたのである。 道の駅の構内とつながっており、車で入った時に気がついていなければならないはずだが、駐車スペースを見つけるのに意識が奪われていたのだろう。 道の駅「あまるべ」、何の予備知識があったわけでもない。 鳥取へ行くのにルートを確かめていて、そこに道の駅があることに気がついただけである。 私が知ったのは、例によってGoogleMapにその記載があってのことで、それ以上は何の情報も持っていなかった。 とここまで書いてきて、待てよ、当然HPがアップされているだろうしと検索してみた。 あるわあるわ。 私がこんなしょうもないページを作って何になるねんというところ。 でもせっかくここまで書いてきたのだし…。 空の駅? 再び道の駅へ戻って、鉄橋の下を歩いてみる。 と、案内板があって「空の駅」とある。 うちの近所三上山の登山口に「山の駅」というのがある。 たしかどこかに「海の駅」というのもあった。 しかし「空の駅」とは?。 もちろんエアーターミナルではない。 案内板を読んでみるとどうやら旧鉄橋の残された部分が展望台になっているということらしい。 昔ならそれ行けとすぐに歩き出すところだが、いまはまず車で行けるのやろうかと考えてしまう。 そんなこと考えているより、下りてきた誰かを捕まえて聞くのが一番早いのだが、今までの体験上そういう尋ね方をして、的確な情報が返ってきたきたことがない。 情報は自分の目で集める。 いったん道の駅へ戻って情報を集めよう。 右が、道の駅に置いてあったリーフレットである。 それによると「余部鉄橋が展望台に生まれ変わりました」とある。 もはや残された3基の橋脚の上が展望台であることは間違いない。 先ほど頭に浮かんだ「車で行けるやろか」の思いはどこかへ飛んでしまっていた。 ヨシ登ろう。 鳥取到着が30分や1時間遅れてもどうということはないだろう。 展望台まで 山登りと違って行く先はそこに見えているのだから、道を間違うなどの心配はない。 それよりもあの鉄橋のてっぺんまで登るのかという好奇心と大層さ。 たった40mといっても真上に見えるのだから遠くの山を見るのとはわけが違う。 最初20段余りの階段があるがあとはだらだら坂の小道が続く。 撮った写真の撮影時刻を調べると、所要時間は7,8分というところだった。 展望台までの行程 展望台・餘部駅 10分足らずで餘部駅へ着く。 「余部鉄橋 空の駅」の碑はまだ新しく文字の金色が生々しかった。 そういえば下の登り口に「」があって、平成25年5月3日の日付が付してあった。 その横のレールが展望台につながっていた。 なお、「あまるべ」とは、ふつう「余部」と書かれるが、が使われている。 明治45年、鉄橋はできたけれど、昭和34年まで余部に駅はなく、通勤通学には、列車通過の合間を見て、余部鉄橋を歩いて渡り、約1.8Km離れた鎧駅まで歩いて通っていたという。 「地上40mの鉄橋の上も、真っ暗なトンネルの中も地元の人たちは枕木の間隔を身体が覚えていて、難なく歩くことができました。 」と道の駅のリーフレットにある。 そうかこれがかつての鉄橋上のレールか。 これが鉄橋上につながるレールだとしたら、もっときっちり撮るのが礼儀だろう。 ということで左の写真。 向こうののトンネルまで直線でつながる所をきっり撮りたかったが、何か白いものが見える。 最初意味が分からなかったが、近寄ってみる新しい橋脚の一部だった。 言うまでもないことだが、旧鉄橋はトンネルと一直線につながっていた。 旧鉄橋で営業運転しながらその横に新しい橋梁を建設した。 そのオフセットの分だけをとっている。 いちばん奥の一部がトンネル半分ぶんずれて見えているということらしい。 柵の反対側は余部駅のホームだが何人かの人がいる。 空の駅の見学者ではなく、列車を待っている雰囲気である。 ということは一日に何本も来ない列車が来るということらしい。 待合室で時刻表を見ると0時19分の豊岡行き。 あと少しだ。 ただのディーゼルカーを見ても仕方がないのだけれど、それに出くわしたということがくじにでも当たったようにうれしい。 待つことしばし、山の陰からヘッドライトの光が近づいてくる。 昔だと型番ぐらいは言い当てたのだが、今はさっぱり。 2両編成だが、ドアが開くのは前の1両のみ。 最初からセットされているのか、手動オープン式で、このときたまたま乗り降りが前の車両のみだったのか。 ドアが一斉に開閉する方式に慣れている目には珍しかった。 列車を見送って、といってもたったの2両で列車といえるかどうか・・・、展望台へ。 先ほどの列車から降りてきたらしい中年の女性2人が、「ここは入ってもいいのでしょうか」。 そのために下りたんじゃないのと聞きたかったが、このあと次の列車までどうするつもりなのか。 下の道の駅へでも行って時間つぶしをするのか。 いらぬおせっかいだけど。 さて、展望台。 下から見上げた時はよくぞ残してくれたと感激したが、ここまでくると、またこれか。 立派な欄干の外に背の高いネットを見て、何が絶景か。 これじゃまるでニワトリと同じである。 旧鉄橋の一部を展望台として残す、このすごい発想がこれで半分以上台無しになっている。 関係者は手もみしながら言うのだろう。 「内側の欄干が本来ものでして、外のネットはあくまで防御用で…」。 この立派な欄干を越えて落ちるやつがいたら落ちるほうが悪い。 施工者には何の責任もない。 「それはいいのですが、もし落ちられたら下にいる人の安全が・・・」。 もうエエ。 オットット、横の網ばかりに気を取られていたら、なんと行く先には、これは怖いぞ。 ときどき映画でこんなのがあるけれど。 ご心配には及びません。 から撮ったものでして。 列車転落事故 衝撃的な事故だった。 1986(昭和61)年12月28日、客車7両が鉄橋の上から落下したあの大事故である。 兵庫県香美町発行の『余部鉄橋』には、次のようにある。 水産加工場で働く地元の女性従業員5名と、車掌1名が死亡し、6人のけが人が出た。 転落したのは山陰お買い物ツアーの臨時お座敷列車「みやび」の団体用客車。 176名の乗客が香住駅で下車した直後の出来事だった。 ・・・・ 同書にはこの後事故原因等が詳述されているが、事情の分からない素人が要約するのもはばかられるし、この項の目的でもないので、省略する。 いずれにしてもこの事故を契機に風速規制が25mから20mに引き下げられ、それによって列車の遅延・運休が増加、今回の架け替えにつながったのだという。 つけたし 芸のない話だけど、鳥取での所用を終えて同じ道を引き返すことにした。 再び道の駅「余部」についたのが0時15分。 意図的に合わしたわけではなかったが、きのうの駅で出会ったのがたしか19分発だった。 もうすぐだ。 ということで左の写真が余部駅を発車、橋梁に架かる豊岡行き。。 新橋梁にはアクリル製の坊風壁を備え、風速30mでの列車運行が可能になっているという。 きのうなんだかだといって登らなかったシャチョウが、どうしたことか今日は登るという。 その理由は、小雨模様で涼しいからだと。 勝手にせい。 登りついたのが30分ちょっと過ぎ。 たしか0時40分に下りが来るはず。 待つことしばし、橋の上をライトをつけてやってくる鳥取行き。。 駅のホームから撮るとき、頭の中では地上40mの橋梁だということはわかるが、いざ写真になると平地と変わらない。 たしか撮影ポイントとして、ホームの反対側にお立ち台があると書いてあった。 案内表示が不確かで信用できなかったが、とにかく行ってみることにする。 橋梁が眼下に見えるいい場所だった。 さっきの鳥取行きをここで狙うべきだった。 しかし、後の祭り。 下りの途中、旧橋脚2脚の間から余部湾(というのかどうかよくわからないが)が見えた。 昨日も通ったはずだが、気がつかなかった。 風景は気象によって効果が左右される。 小雨模様のきょうは湾内に白波が立って、手前の集落との組み合わせに効果を上げていた。 道の駅にあった旧鉄橋の模型。 ディーゼル特急が行く。 昭和30年代の後半、毎年1回校外学習の引率で2,3回この鉄橋を渡ったことがる。 そのころの山陰線の普通列車。 窓の開け閉めは自由だった。 生徒をほったらかしにして、窓から身を乗り出して写真を撮った記憶があるが、まともな写真は残っていない。 橋の高さを表現するすべを知らなかったのだろう。

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