もうひとつの雨宿り 意味。 新海誠監督インタビュー 「万葉集」と“雨”の歌から生まれた、「これは雨宿りの映画」

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もうひとつの雨宿り 意味

前回の続きで、意味づけについて。 講談社文芸文庫の「意味という病」の冒頭に置かれた「マクベス論」は、経済学部出身で新しいタイプの文芸評論家(というよりは、吉本隆明のような「思想家」といった方が似合ってると思うが)柄谷行人の1973年の作品だ。 副題に「意味に憑かれた人間」とある。 柄谷のこの作品を、<意味づけ>というポイントを中心に僕なり解釈してまとめると次のようになる。 <観念という魔物> 文庫版のあとがきによれば、柄谷は「マクベス論」を、1972年の連合赤軍事件に触発されて書いたという。 連合赤軍事件や左翼諸派の内ゲバはイデオロギーとイデオロギーの衝突であった。 「マクベス論」の中で、マクベスとバンクォーの熾烈な敵対を分析する部分があるが、柄谷はここで連合赤軍事件を思い起こしていたのかもしれない。 事件はもともとどんな現実的契機も根拠もなく、彼らにとりついた「必然性」の観念から生じた、ひとが観念をつかむのではなく、観念がひとをつかむ。 ひとが観念をくいつぶすのではなく、観念がひとをくいつぶす。 ・・・・彼ら二人は彼らが共有した「観念」によって争っているのであり・・・現実的利害と無縁なところで行われた・・・「マクベス」はマクベスが王になるという魔女達の予言で始まる。 この予言が、あるいはそれを口にする魔女達が、人を食いつぶす観念だ。 僕にとっては、これは吉本隆明の使った「共同幻想」と同じである(柄谷はきっと違うというだろうが)。 バンクォーはマクベスとともに魔女の予言を聞いた。 マクベスは王になるが、バンクォーの場合は子孫が王になる、という予言であった。 二人ともこの予言に囚われ、つまり予言を彼ら人生の必然=意味づけとして生きはじめる。 バンクォーにとっては、このことは自分の現在を捨てる事に他ならない。 自分は王になれず子孫が王になる、であれば彼が何をしようともはや関係ない。 ある種の観念は、個人の現世への意味づけにはまったくならない、ということだ。 マクベスの方は、この予言に踊らされ破綻へと転がり落ちていく。 マクベスはバンクォーを殺さざるを得なかった、それは二人が共有した観念によって争っていたからだ。 <意味づけを拒否したマクベス> シェークスピアの四大悲劇の中で「マクベス」だけが、一切の意味づけを拒絶するという形で終わっている。 それに対してオセロやハムレットは憂鬱な世界に意味づけ・必然化・運命化を持ち込もうとしてある行為に踏み切るが、その行為は虚偽の幻影に他ならないことを思い知らされ、幻滅するに至る。 しかし、意味を求める主人公達は最後に再び自己のドラマ化(意味づけに他ならない)としての自殺を選び、<運命にあやつられる>役柄を作り上げることで、意味を回復し世界との和解に至るのだ。 オセロもハムレットも自らを運命の描くドラマの主人公にして浸っていたのだ。 イアーゴの姦計に乗ったのも自らがそれを望んでいたからだ。 妻に姦通されて悲劇の主人公になりそのドラマを楽しんでいた、と言えよう。 そのドラマ化がほんとうではない事に気づいた後でも、執拗にドラマ化を完結したのが自殺だった。 無意味から意味をつかみ出す、あるいは自己疎外の極から自己実現へ上昇する、人間を前へ前へと駆り立てるドライブ(これを柄谷はオプティミズムと呼んでいるが)に煽られ、結果幻滅を舐めさせられる、そして再び立ち上がった主人公は(まるで倒れても倒れても立ち上がってくる明日のジョーのように)この螺旋運動をくり返す、これが意味に取り付かれた人間ということだ。 柄谷の読みとるマクベスは、この螺旋運動の意味づけゲームを拒絶する。 マクベスの最後の言葉を見てみよう。 ・・・あのいかさまの鬼婆め、もう信用せんぞ。 ・・・・降参などするものか。 ・・・俺は最後まで戦うぞ。 さあ、楯も捨てた。 かかってこい、マグダフ。 最後に「参った」といった奴が地獄へ落ちるんだ。 マクベスは、魔女達の言葉を信用することをやめた、つまり自分を意味づけることをやめた。 しかし、屈服して自殺するようなことはしない。 自殺することで自分を英雄としてドラマ化することなど、もうしない。 柄谷を引用すれば、マクベスは「<悲劇>というわな、自己と世界との間に見せかけの距離を設定した上で和解へと導くそのからくり」から抜け出した。 「マクベス論」は、上にまとめたことの他にいくつかの重要と思える指摘があるが、現在は取り上げない、というのもまだ消化しきれない部分があるからだ。 いつかもう少し理解できた時に、また挑戦する事にする。 さて、長々と「マクベス論」に拘ったのは、柄谷が否定的に捉える<無意味-意味-幻滅-和解>の循環螺旋運動(マクベスはこれを拒絶しているわけだが)を、僕は進化心理学的な視点で捉えなおしてみたい、と思ったからだ。 次回、この辺りにチャレンジしてみたいが、うまくいくかどうか定かではない。

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意味という病

もうひとつの雨宿り 意味

比較的マイナスのイメージが強い雨ですが、雨の夢は夢占いでは吉凶どちらの意味も持っています。 吉夢では、悪いことを洗い流す暗示や、心の浄化を象徴するものです。 また、草木や作物にとって雨は、生命力を高めるために重要な役割を持っています。 雨のもたらす恵みは、私たち人間にとっても大切なもの。 そのため雨の夢には生命力を高める意味があり、幸運を舞い込む暗示とも言われています。 生命力の高まりと幸運という観点をスピリチュアル的に考えると、妊娠を予知する夢とも考えられます。 妊娠を予知する夢というと神秘的に感じますが、潜在意識を通して生命の誕生を感じ取ることは実際にあると言われているのです。 凶夢では、悲しさや憂鬱さといった負の感情を象徴しています。 雨が降ると憂鬱になる人も多いのでは?そのような気持ちを雨の夢は反映しているのです。 それでは、雨の夢の状況別にどんな意味を示しているのか詳しく見ていきましょう。 夢で転ぶ夢を見たら嫌な予感がしてしまいますよね。 雨で地面が濡れると滑って転びやすくなるので、現実でも時々やりがちですが、夢で見たときはどんな意味があるのでしょうか。 この夢では、何か生活に変化が起こることを暗示しています。 仕事や家庭内、人間関係など生活に密接した物事においての変化です。 良い方に変化するのか悪い方に変化するのかは、この夢を見ただけではわかりませんが、夢の中で転んで怪我をした場合は注意が必要です。 その場合は運気の低下を意味し、仕事などで大きなミスを犯す可能性があります。 それが原因で仕事を辞めなければいけなくなったり、立場が危ぶまれたりということが考えられますので、慎重に行動するようにした方が良さそうです。

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新海誠監督インタビュー 「万葉集」と“雨”の歌から生まれた、「これは雨宿りの映画」(2013年5月31日)|ウーマンエキサイト(2/6)

もうひとつの雨宿り 意味

恋に焦がれ、そして恋に少しだけ臆病な女性の心情を詠み、「万葉集」に収められた一篇の和歌と6月の雨に導かれ、現代の東京を舞台にした切ない恋物語が誕生した。 まもなく列島を覆う梅雨前線をおそらく多くの人がうっとうしいと感じているだろうが、このを観たら、雨の路地を静かに歩いてみたくなるのではないだろうか。 常に「最新作こそが自分にとって最高傑作」と語る彼のアニメーション作りについて話を聞いた。 靴職人を目指す高校生のタカオと謎めいた年上の女性・ユキノ。 約束もないままに雨の日の午前中だけ、雨宿りをしながら庭園で逢瀬を重ねるようになった2人のそれぞれに打ち明けることのできない思いが静かに綴られていく。 最初に監督の脳裏に浮かんだのが、「少し年の離れた男女が雨宿りで出会う物語」。 そこに、大学時代からずっと心に残っていたという2つの要素が自然と加わっていった。 ひとつが「万葉集」。 そしてもうひとつが、本作で秦基博がエンディング曲としてカバーしている大江千里の作詞・作曲による楽曲「Rain」だった。 「大江さんが好きな女の子がいて、その子に貸してもらったカセットに『Rain』があってずっと好きな曲でした。 『万葉集』も同じ時期に、僕は国文学専攻だったので基礎教養として学んだんですが、千年以上も昔の和歌なのに、男女の想い合う気持ちって連続してるんだなと感じてました。 この2つは種のように僕の中にずっとあって、それが最初のイメージと繋がって組み合わさっていきました」。 「タカオとユキノが出会うきっかけとなる直接的な意味ではもちろん、彼らの人生の中で立ち止まっている時期という象徴的な意味でも、これは雨宿りの映画」と新海監督。 当然と言うべきか本作における雨の描写は特別な意味を持って観客の心に染み込んでくる。 「例えば最初に2人が出会ったときに降っている雨は2人を隔てるカーテンのように降り注いでます。 2人の関係が深まっていくにつれて雨も小降りになるし、タカオが初めてユキノの足に触れた日は、天が祝福するかのようにキラキラした天気雨が降り、土砂降りの雨は2人の背中を後押しする。 強弱だけでなく、雨粒を光らせたり、地面の濡らし方、水たまりからはね返るしずくの大きさなど、単に降り注ぐだけでなく2人の感情に絡めながら雨を描き分けて、意味を持たせることは強く意識しました」。 雨だけではない。 例えば、粉々にひび割れたユキノのファンデーション。 セリフがなくとも彼女の心に積み重なった哀しみや疲れを、共感をもって観る者に感じさせる。 正直、この描写ひとつとってみても人間(特に女性!)の心理に対する監督の深い洞察には驚かされる。 ユキノ役の声優・花澤香菜はこの描写を目にした瞬間、涙が止まらなくなったと明かしている。 だが当の監督は「あれは偶然と言うか…取材による聞き込みのたまものですね」と静かな笑みを浮かべるばかり。 「あそこはユキノの哀しみを観客に伝えるだけでなく、実感し共感してもらわないといけない。 じゃあ哀しみにさらに追い打ちをかけるような、ヘコむ出来事って何か? と女性スタッフたちに聞いたら『ストッキングの伝線』『ヒールが溝に挟まる』という答えが出てきた。 でも伝線はアニメでは表現しにくいし、靴作りの物語だからヒールだと直接的すぎて何か違う意味を持ってしまう。 それで『他には?』とさらに聞いたらファンデーションの話が出てきたんです。 当たり前ですが、最初に表現したい感情やシチュエーションがあって、それをどう描くかを考え、取材をしたり、一番しっくりと来る比喩やセリフを探したりしています」。 自身の感情や共感を反映させ、人物に寄り添うことがないわけではないが、一方で時に登場人物の感情の起伏をグラフにし、パズルのように組み立てていくこともあるとか。 「そうかもしれません。 宮崎駿さんのようにご自身が優秀なアニメーターである監督もいらっしゃいますが僕はどうやってもそうはなれない。 やっぱり、自分の中に理屈のないあやふやな状態で、スタッフに説得力をもって描かせることはできないですから」。 「ひとつは会話やモノローグで使用する『言葉』の選択。 そして3つ目が『時間軸』。 この音楽は何秒で、このカットはコンマ何秒、音楽が途切れた瞬間に足音が…といった部分のコントロールは全て僕がイメージし、作り上げている。 それが自分にしかできない強みになればと思ってます」。 何より、新海監督が自身の作品に込めるのは「誰かを励ましたいという思い」だという。 「その誰かにはきっと20代の頃の僕、いや、いまの僕自身も含まれている」と続ける。 「20代で自主制作を始めたとき、とにかくつらい自分の現状を何とかしたいって思ってたんですよね。 それこそタカオが『靴を作ることがおれを違う場所へ連れてってくれる』と考えるように。 自分の置かれている状況を誰かに肯定してもらえたら、ずいぶん楽になるのに…と大げさかもしれないけど、切実に救いを求めていたんですね。 それが何より20代の僕がほしかったものだから」。 アニメーターではないからこそ、スタッフを指揮して実写で映画を撮ってみたい気持ちは? 最後にそう尋ねると「そういう気持ちは正直、ないんです」とつれない答え…。 その真意は? 「僕の作品に対して『実写のようですね』という感想はよくいただきますし、たまにそういうオファーをボンヤリといただくことはあります。 でも僕の作品はアニメーションだからこそ表現できることを描いていると思ってます。 現実の世界を物語の舞台にしているのも、決して現実を描きたいからではなく、そうすることで実写でそのまま撮る以上の大きな力をもって受け取ってもらえると思うから。 絵の持ってる力ですね。 もし誰か別の方が僕の作品を原作に実写で撮りたいと仰るなら、それはウエルカムですよ(笑)」。 46分に込められた、物語の深みと情景の美しさをじっくりと堪能してほしい。

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